東 慶 寺

2005年11月吉日

鈴木大拙と西田幾多郎(柳宗悦)に逢って来ました。







10月さくら



鈴木大拙



鈴木大拙語録
「東洋的な見方」より

東洋民族の間では、分割的知性、したがって、
それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。
知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。
われわれ東洋人の心理は、知性発生以前
論理万能主義以前の所に向って
その根を下ろし、その幹を培うことになった。
近ごろの学者たちは、これを嘲笑せんとする傾向を示すが
それは知性の外面的光彩のまばゆきまでなるに
眩惑せられた結果である。
畢竟ずるに、眼光紙背に徹せぬからだ。
主客未分以前というのは
神がまだ「光あれ」といわなかった時のことである。
あるいは、そういわんとせる刹那である。
この刹那の機を捕えるところに
東洋的心理の「玄之又玄」なるものがある。
この玄に触れないかぎり、知性はいつも浮き足になっている。
現代人の不安は実はここから出てくる。
これは個人の上だけに現われているのではない。


「有限即無限」は「色即是空」である。
分割すると、一、二、三、四・・・となる
そうなれば、数は有限である。が
それと同時に、一、二、三、四、・・・が直ちに
そのまま、無限である。


「有限即無限」に到達しないと
自由と言うものは得られない。
分別識の世界では
本当の意味での自由なるものはないのである。


哲学の、理窟の、詮索に向う点からいうと
抽象的思索に長けているのは
東洋人よりも西洋人のほうがえらい。
それだけ西洋哲学者には
人格として感心すべきものが少ない。
いわゆる「哲人」とか「聖者」とかいうのは東洋のほうに多い。
それはなぜかというに、理窟は明白である。
「哲学者」の思索は生活そのものに即せぬ。
東洋では「哲理」を生きてゆこうとつとめる。
「哲理」を霊性の生活面から導き出さんとつとめる。
理から行に移るのではなくて
行から理を開き出さんとする。
つまり、東洋では生そのものを美化する。


東洋では立派な思想の殿堂を造らぬ代わりに
自分の住居は、すべて行住坐臥の庵室として
いかにも心にくきまでに、瀟洒で静寂である。
誰が来ても心寛ぎ、神代の昔になったと思うまでに
アンインヒビテッド(のびやか)で
八面玲瓏で、円融無礙である。
各々、その長所と短所とがある、といいえられる。
しかし、生きてゆく上では
眺めるための殿堂よりも、住み心地の良い草庵の方が
よさそうではないか。


鼠を食う猫でも、鹿を食う獅子でも
憎悪の念もなければ、強弱の自覚もなく
善悪の差別もしなければ、可哀相だという憐れみも何もない。
各自の特性をそのままに、「子供心」の発露に外ならぬ。
この点では、大人の人間ほど、罪の深いものはない。
善悪とか、慈悲とか、愛とか、神の摂理とか何とか
鹿爪らしいことをいいつつ、喋りまわりつつ
その舌のまだ乾かぬうちに、人を殺したり
(このごろは大量生産の工業化につれて、十万、二十万の人殺しは
目を白黒させている間に、一挙に葬り去ってしまう)
泥棒をしたり、なんだりする。
そうして自分らは他の動物・生物よりは、
よっぽどえらいと考えている。
造物の神さまがいらっしゃるなら、早く頼んで
よりよい人間を造ってもらうことにしたいものである。


シナやインドの学者のいうように
東洋では、何事も人格の完成ということに関係させているが
西洋では、科学は科学のため、芸術は芸術のためなどといって
そのものの独立性をやかましくいう。
日本などでも、人間のやることは何でも
(生け花でも剣道でも、踊りや謡でも、何でも)
人格の向上ということに関係させるのである。
画家にしたところが、胸中万巻の書がなくては駄目だなどという。
西洋の美術にそのような注文をつけるものはあるまい。
ここに東洋と西洋との相違があるといってもよい。


東洋的心理は何事も内に向けようとする。
東洋人は大体にイントロヴォルト(内向的人間)だ。
西洋人はエキストロヴォルト(外向的人間)だ。
それで彼らの好奇心・研究心は外へ外へと向かってゆく。ひろがってゆく。
内側の方は、お構いなしというくらい閉却している。
外は広い、内は深い。


西洋人は人間を自然性化する。
東洋人は自然を人間性化する。


自由の本質とは何か。
これをきわめて卑近な例でいえば
松は竹にならず、竹は松にならずに
各自にその位に住すること
これを松や竹の自由というのである。


人間は煩悩に責められる娑婆にながらえて
「不自由」のなかに、自由自立のはたらきをしたいのだ。
ここに人間の価値がある。
人間は積極的肯定の上に卓っている存在である。


この「ただいま」(即今)を無限そのものだと悟るとき
零すなわち無限の式が成立する。
アッというこの一瞬が直ちに無限の時間そのものであると気のつくとき
東洋思想の根柢にふれることができる。


元どおり、本具の人間性に還ることである。
「還ること」が大事なのである。
仏にならないで、仏になりきらないで
もとの凡夫になることである。
禅者のいう「平常心是道」である。


つまりは自分自身の奥の奥にあるものを、体得するところにある。


「まだ禅にはいりきらない前は
山は山、水は水であった。
少し禅をやるようになったら
山は山でなくなり、水は水でなくなった。
ところが
修行もすんだということになったら
山はまた山、水はまた水になった」


人間生活の終末は
すべての人工的組織から開放せられて
自らの組織の中に起居する時節でなくてはならぬ。
つまりは、客観的制約からぬけ出て
主観的自然法爾の世界に入るときが
人間存在の終末である。


しかと見定めなくてはならぬものは
われら内面の自由な創造力である。


われら人間の内面性の極限にあるものは、万古不変だ。


東洋民族性の心理の奥底に
すこぶる幽玄なるものがあって
これを自分は世界の至宝だと思っている。
どうかして、それを世界の他の人々の間に広く知らせたいのである。
世界の人々は、ここにおいて、その霊性の上に
新しいものを見ることになると自分は信じて疑わぬ。が
安っぽい感傷性の東洋的なるものにいたっては
大いに排斥すべきだ。
この点では、欧米式の合理的なるものを
学びとらなくてはならぬ。
それで感傷性を置き換えるべきである。
中央アジアの砂漠の真中で、テントを張って
その間から星斗欄干たる大空を眺めて悟りを開いたという
一人のイギリス人の話を、親しくその人から聞いたことがある。
殺気紛紛、実利主義氾濫の今の時代の真只中で
このような東洋人ー日本人ーを見たいものではないか。


”心なく身も消えはてて何ものもいひたりしたりなりやなるらむ”
”身も消えて心も消えてわたる世はつるぎの上もさはらざりけり”
”心こそ心迷はす心なれ心に心心ゆるすな”
”うきものとおもひながらもさりとても身にばかささるる心なりけり”
”心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神やまもらむ”


人生は夢幻泡影だといって
山の中に引っ込むのが哲人の生活だとして
うらやむべきでもない。
他の一面から見れば、一念万年だから
この一念の立場を無限に意味あるものにしなくてはならぬ。
このような創造性を持ち得ない、あるいは体得しえないものは
人間としての価値がないというべきである。
すべてのものに、創造性はあるが、これだけでは、意味をなさぬ。
これを認めて、自分の上に、体得しなくてはならぬ。
この体得のゆえに
「一念に普く無量劫を観、無量劫の事とは即ち如今である」
と、道破し能うのだ。


西洋のネイチュアには「自然」の義は全くないといってよい。
ネイチュアは自己に対する客観的存在で
いつも相対性の世界である。
「自然」には相対性はない、また客観的でない。
むしろ主体的で絶対性をもっている。
「自己本来に然り」という考えの中には
それに対峙して考えられるものはない。
自他を離れた自体的、主体的なるもの
これを「自然」というのである。
それで道は自然に法りて存するというのである。


たとえば極楽へ行って、何するのか、毎日ひにち
思うことが直ちに行ずることだとなると
どこに生きることの楽しみがあるか。
その中にいて、またその中から離れることのできる分別識があればこそ
人間は人間として、日本は日本として、シナはシナとして
西洋は西洋として、各自に楽をしたり、苦しみをしたりして
おもしろおかしく生きていくのではないか。
苦のない世界、楽のない世界、そのような一方向きの世界には
人間は絶対に生きて行けるものでない。
また行くこともいらぬのである。


新しいものには奥行きがない
何もかも目に見えるだけである。
古いものは、これに反して、深味を持っている。
この深味に不思議がある
この不思議が人の魂を引きつける。
茶人は多くこの魂の持ち主である。


大工さんがコンコンやっておる、鉋でけずる
というところに十七文字の詩情がわけば
このふつうの労働、この機械的な反復のほかに
いちいちの鉋の動き、鋸の動きに
いうにいわれぬ詩情、今のポエジィを感ずるとすると
これだけの仕事を何時間やって、どれだけの給料をもらうんだという
交換条件を何も入れないでですね、ただ
こうやっておることだけに妙を感じて
十七文字で表現することのできるものを
手足を動かす人が感じられたら
その労働の世界というものは
まったく変わってしまうだろうと思うです。


まあ、そのような、ちょっとした日常のことにも
詩をそこに見ることができるですね。
詩情というか、その詩を見るというのが宗教です。


自力のみで動かすことの出来ぬものがある。
これを他力というなら、その他力はまた自力のゆえに働くことが可能なるがゆえをもって
他力即自力、従って自力即他力というべきであろう。


七十を越しての大人の心の欲するところとは何か、これが問題になる。


自分は世界人としての日本人のつもりでいる
そうして日本にー東洋にー
世界の精神的文化に貢献すべきものの十分にあることを信じている。


「自由」とは、自らに在り自らに由り自らで考え自らで行為し自らで作ることである。
そうしてこの「自」は自他などという対象的なものでなく
絶対独立の「自」
ー「天上天下唯我独尊」の、我であり、独であり、尊であるー
であることを忘れてはならぬ。
これが自分の今まで歩んで来て、最後に到達した地点である。


宗教というと、何だか吾らに縁遠いもののように思うのが
世人一般の考えであろうと信ずる。
実際吾らの日常生活では衣食住がさきになるので
これさえ整えばそれでよいということになる。が
人間の人間たるところは、決してそれだけではいけない。
人はパンのみで生くるものではないとは
東西古今の歴史に徴しても十分にわかる。
ただ多くの人は宗教体験に導き入れられるような機会に恵まれないので
あたら一生を何も知らず過ごして居る。
それで別に悪いというのではないが
出来るなら誰もかも一度は衣食住以外に
何やらあるということに気付いてほしいのである。
いらぬ心配だといえばそれまでであるが
吾らはこのいらぬ心配をしなければならぬように出来て居る。
いらぬ心配だといって宗教を斥けるものも
そのいらぬ心配を為さなければならぬように出来て居るものも
共に霊性的な人格なので
必ずしも一を揚げて他を抑える理窟はないのである。
宗教の体験は自己の存在を
その最も赤裸々のところに見るときである。





西田幾多郎



西田幾多郎語録
「善の研究」より

経験するということは事実其儘に知るの意味である。
全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっている者も
その実は何らかの思想を交えているから
毫も思慮分別を加えない真に経験其儘の状態をいうのである。
たとえば、色を見、音を聞く刹那
未だこれが外物の作用であるとか
我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず
この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。
それで純粋経験は直接経験と同一である。

純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく
その最も自由にして活発なる状態である。

真理を知るというのは大なる自己に従うのである
大なる自己の実現である。
(ヘーゲルのいったように、凡ての学問の目的は
精神が天地間の万物において己自身を知るにあるのである)

完全なる真理は個人的であり、現実的である。
それ故に完全なる真理は言語にいい現すべき者ではない
いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。
凡て真理の標準は外にあるのではなく
かえって我々の純粋経験の状態にあるのである
真理を知るというのはこの状態に一致するのである。

知識のおいての真理は直に実践上の真理であり
実践上の真理は直に知識においての真理でなければならぬ。
深く考える人、真摯なる人は
必ず知識と情意との一致を求むるようになる。

事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない
色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。
ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲といったが
天文学者はこれを詩人の囈語として一笑に附するのであろうが
星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。

仏教などにて自分の心持次第にて
この世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く
つまり我々の世は我々の情意を本として
組み立てられたものである。

この統一力即ち自己は何処より来るかというに
つまり実在統一力の発現であって
即ち永久不変の力である。
我々の自己は常に創造的で自由で
無限の活動と感ぜらるるのはこの為である。

水を動かすのは水の性に従うのである
人を支配するのは人の性に従うのである。
自分を支配するのは自分の性に従うのである
我々の意志が客観的となるだけそれだけ有力となるのである。

大なる精神は自然と一致するのであるから
我々は小なる自己を以て自己と為す時には苦痛多く
自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。

恰も単に木であり石であると思っていたものが
その真意義においては慈悲円満なる仏像であり勇気満々たる仁王であるが如く
いわゆる自然は意志の発現であって
我々は自己の意志を通して
幽玄なる自然の真意義を捕捉することができるのである。

「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさになみだこぼるる」
(西行法師)

竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように
人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。

美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。
理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂である。
それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く
人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。
善は即ち美である。
たとい行為その者は大なる人性の要求から見て何らの価値なき者であっても
その行為が真にその人の天性より出でたる
自然の行為であった時には一種の美感を惹くように
道徳上においても一種寛容の情を生ずるのである。

雪舟が自然を描いたものでもよし
自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。

我々が実在を知るというのは
自己の外の物を知るのではない
自己自身を知るのである。
実在の真善美は直に自己の真善美でなければならぬ。

実地上真の善とはただ一つあるのみである
即ち真の自己を知るというに尽きて居る。
我々の真の自己は宇宙の本体である
真の自己を知れば常に人類一般の善と合するばかりでなく
宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。

世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がいる。
しかしかくの如き問いは何故に生きる必要があるかというと同一である。
宗教は己の生命を離れて存するのではない
その要求は生命其者の要求である。
かかる問いを発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。
真摯に考え真摯に生きんと欲する者は
必ず熱烈なる宗教的欲求を感ぜずにはいられないのである。

真の自由とは自己の内面的性質より働くという
いわゆる必然的自由の意味でなければならぬ。

「天は到る処にあり、汝の立つ処行く処皆天あり」
(ベーメ)

有を離れたる無は真の無ではない
一切を離れたる一は真の一でない
差別を離れたる平等は真の平等でない。

我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。
月を愛するのは月に一致するのである。





さざれ石の巌



由比ガ浜の夕日



由比ガ浜の海



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日 本 民 藝 館

柳宗悦に会って来ました。


(東京都目黒区駒場4−3−33)

民藝館の使命は美の標準の提示にある。
その価値標準は「健康の美」「正常の美」にある。
美の理念として之を越えるものはない。
かかる一貫した美の目標の下に個々の品物を
又全体を整理することは極めて重要な仕事と思われる。
云ふまでもなく、かかる標準を最初から理論で組立てるべきではなく
深く直観に根差すべきなのはもとよりである。
ここで民俗博物館との差違が起る。
後者は直観に基く美的価値を中心とする美術館ではない。
民藝館は単なる陳列場ではない。
従って列べ方も事情の許す限り
物の美しさを活かすやうに意を注いである。
品物は置き方や列べる棚や背景の色合や
光線の取り方によって少からぬ影響を受ける。
陳列はそれ自身一つの技藝であり創作であって
出来得るなら民藝館全体が
一つの作物となるやうに育てたいと思ふ。
とかく美術館は冷たい静止的な陳列場に陥り易いのであるから
もっと親しく温かい場所にしたいといつも念じてゐる。

初代館長 柳宗悦「日本民藝館案内」より





柳 宗悦 語録


○今日空 晴レヌ
○古シ泉ハ 新シ 水ハ
○泉タバシル トハニ 新ニ
○冬ナクバ 春ナキニ
○冬 キビシ 春ヲ含ミテ
○カヲルヤ 梅ヶ香 雪ヲ エニシニ
○雪 イトド深シ 花 イヨヨ近シ
○蕗ノタウ ホホエム 雪ニモ メゲデ
○吉野山 コロビテモ亦 花ノ中
○秋サブ 夏ヲ経テ
○月一ツ 水面ニ宿リ 百千月
○春 花二エミ 夏 日ヲアホギ
秋 月二スミ 冬 雪トヤスム
○松 根強シ 枝聳ユ
竹 幹直シ 陰清シ
梅 香りミツ 雪フルモ
○花 見事ニサキヌ 誇リモセデ
ヤガテ ウツロヒヌ ツブヤキモセデ
○見ルヤ君 問ヒモ 答ヘモ
絶ユル世ノ 輝キヲ
○之モ亦 之モ サンゲノ 仕事カナ
○今ヨリ ナキニ
○ナ 云ヒソ 明日ト
○捨テ身ナレ 悔イジ ヨモ
○幸イトド ムクイ 待タネバ
○文エガケ 文ナキマデニ
○文アリテ 文ナキ 之ナン文
○何ヲカ払フ 払フガ塵 払ハヌガ塵
○急ゲド 水ハ 流レジ 月は
○月ハ映リキ 水ヲ染メデ
○魚ハ游ゲド 水ニ跡ナキ
○今 見ヨ イツ 見ルモ
○見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ
○ナ タジロギソ 一人 ヒトリカハ
○ナドテユタケシ 貧シサ ナクバ

(「心 偈」より)



一、作をして美しきものたらしむべき
一、用ゐられん為に作るべし
一、作る心は奉仕たるべし
一、倦む事なく作るべし
一、作るとは活きる意なり
一、名を成さんとて作る可からず
一、感謝を以て作るべし
一、無に帰らむと求めよ
一、作には静寂あるべし
一、一つの作は一つの公案と思ふべし
一、作は懺悔なり
一、技巧に死すべからず
一、又知識に亡ぶべからず
一、作は健全を旨とせよ
一、手を尊ぶべし
一、価の廉なるを心掛くべし
一、自からも用ゐたき器を作るべし
一、多種の作を欲するは自然ならず
一、未熟を恐る可からず
一、作には慎みあるべき也
一、素直なる作は愛を享くべし
一、下手のものを作るは常によし
一、無心は美の基礎なり
一、資材を吟味せよ
一、資材の性質に従順たるべし
一、批評を恐るべからず、されど自然には常に批評を求むべし
一、自然を熟視せよ
一、器を作るは自らを作る也
一、心浄まらずんば器浄まらず
一、作をして人類の伴侶たらしむべし
一、古作品を敬すべし、されどそこに死す可からず
一、よき師を有つは常によろし
一、よき友を有つべし
一、生活を質素にせよ

(「工人銘」より)



もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく
好き者と醜き者とがあるなら、私は仏にはなりませぬ。

仏の国においては美と醜との二がないのである。

美醜を越えたその仏性に帰れ
この本然の性を離れて真実の美はない。
かく教えるのが美の宗教である。

「如」はまた「一」である。
「一」はまた「不二」ともいう。
それ故美にも醜にも属しないものであるし
また醜を棄てることで選ばれる美でもないのである。
醜でない美というが如きものは高が知れている。
そんなものが真に美しいものであるはずがない。

不完全さを厭う美しさよりも
不完全さをも容れる美しさの方が深い。
つまり美しいとか醜いとかと言うことに頓着なく
自由に美しくなる道があるはずなのである。

本来美醜もない性が備わっているのであるから
美しくな成ろうとあせるより、本来の性に居れば
何ものも醜さに落ちはしないはずなのである。
それ故拙くとも拙いままに
皆美しくなるように仕組まれているのである。

それ故素直であり無垢でありたい。
これは何も赤子そのものに戻れというのではなく
滞らない無心な自在な境地に入れという意味である。

「井戸茶碗」は何よりの例証ではないか。
誰が作ったかも分からぬ。
一人や二人ではない。
それも貧乏な陶工にすぎなかったのである。
各々が天才だったなどと、どうして判じ得よう。
平凡極まる工人たちだったのである。
それも安物を作るのである。
一々美しさなどを意識してはいられない。
むしろ荒々しく無造作に作ったのである。

だがここでもう一つ注意を喚起しよう。
どんな後代の天才が凡人の作った「井戸」以上の茶碗を易々と作り得たか。
至難だと見える。
天才には秀でた作が出来るのである。
だが凡人にはなおもそれが出来るのである。

醜さは貧しい自己に頼る時に起る。

信心深い時代には
人間はもっと素直であり、謙虚であった。
容易に自己を忘れた。
これがどんなに彼らを幸にしたか分からぬ。
今は疑い深い時代である。

伝統は一人立ちが出来ない者を助けてくれる。
それは大きな安全な船にも等しい。

美しくすることが仏たることなのである。
美しさとは仏が仏に成ることである。

本来あるがままのものが美なのである。

(「美の法門」より)



穢土を心から厭離する時
実はその穢土が一転して浄土と即結致しますので
穢土が現実の事実である限り
浄土もまた、現下の場となって参るのであります。

「美の浄土」では人間の上下を選ばない
という不思議が先ず行われているのであります。

才不才、賢愚などの対立のほとんど全く消えている世界で
これらの素晴らしい宋窯(磁州)が生まれていたことが分かって参ります。

「巧」が過ぎる方が、かえって醜さに
落ちる場合が多いとさえいえるのであります。
そうして「拙」が逆に人々から好感を
呼ぶ場合が決して少なくないのは
これまた沢山の実例が吾々に示している事実だと存じます。
それは「巧」がかえって「たくらみ」に落ち易く
「拙」が純朴さと交わり易いためだとも考えられます。

それどころか、上手になったら
こんな「美の浄土」に行き着くことは
もう不可能になるとさえ思われるくらいであります。

むしろ「巧」の方に危険が多いと考える方がよいかと思われます。
なぜなら「巧」には様々な誘惑がつき纏うからであります。
この世には「巧」に躓いて倒れた作品が如何に多いことでありましょう。

今日では「大名物」とか
またある時は「国宝」とか呼んで崇められている茶器の数々がありますが
面白いことにそれらの大部分が元来は極めて平凡な
安ものの雑器であったという事実を顧みますと
「美の浄土」では、貴賤の別がほとんど意味を成さないことが
分かってくるのではないでしょうか。

不二となれば「美ならざるはなし」でありますから
そこには反面に醜はおのずから消え去ってしまうのです。
即ち不二ともなれば、おのれなりに
何うしても美しくなるのでありまして
決して醜に勝つことや、醜を拒けることによって
現われる美しさではないのであります。
これを強いていえば
美そのものの美、自立する美とでも申しましょうか。

コプトやインカや沖縄の布に
一枚として醜いもののない事実
しかもそれらの品々の作者が
極めて平凡な織手であったことなどを考えますと
「美の浄土」では「悉皆成仏」の不思議が
行われているのが事実であります。
不思議にも
そこは人の上下、物の上下
即ち好醜の別を消してしまう国土なのであります。

「安ものの故に美しさを増す」
今日から眺めますと
その安い不断着にした紺絣は
素晴らしい美しさで
しかも洗いざらした布はいよいよその美しさを増している
という事実をさえ否むことが出来ません。
それほど平凡な当たり前のこの布が、平凡なままで
当たり前のままで大変美しいのでありまして
美と廉との一致が、ここで
ありありと見られるのではないでしょうか。

つまり日本人はとても美しい着物を平気で平凡に不断着にしていたという
驚くべき事実に逢着致すではありませんか。
美と経済との調和の何よりのよい実例が
ここに見出されます。

自然は本来は一切のものを美しく創っているのであります。
なるほどあるものは醜いと考える場合もあるかもしれませんが
それは人間の自己本位の好悪の立場からしか
評するに過ぎないのでありまして
自然そのものに醜さが許されているわけではないと存じます。

自然の材料はいつも何らかの適応する道によって
活かされることが分かり
かえって悪いといわれるその材料でなければ
生めぬ美しささえ示すに至ることが分って参ります。
これと同じく人間も本来の性質に活きることが出来ますなら
作るものに間違いが起ろうはずはないのであります。

最も適切な例証は
原始民の作品でありまして
そこにはしばしば大した作品が見られまして
近代の優れた芸術家たちさえ
手本と仰ぐものが沢山見出されますが
それは原始民の一人一人が卓越した天才であったためではなく
原始民が文化人よりずっと「本来人」として
生活しているからだと説いてよいでありましょう。

即ち原始民は、文化人よりずっと「天然人」として
即ち「本来人」として生活しておりますので
自由なものを安々と生めるのであります。

人間が浄土を希う心は望郷の念だともいえるでありましょう。

ここでは下手も活かされ、愚かさも活かされ
どんな作りても活かされ、どんな絵附けでも活かされ
何一つこれを障げているものが見当たらないからであります。

人間が自在心に活きれば
何を何う作りましても
醜くはならないのであります。

この意味で一切の美しいものには自然さ素直さ
つまりおのずから成るという必然さが見られるのであります。

「浄土美」はかくして「安らけさの美」「静けさの美」に落ち着いてまいります。

自在さを失うことが、醜くなることなのであります。

本当の自由は、いつも自由主義からも開放されたものでなければなりません。

新しさは誠に束の間のことで
たちまち古くなってしまう新しさにすぎないのであります。

「美の浄土」は次の三つの大きな対立を
消してかかる国土だということを告げております。
否、一切の対辞が消え去る世界をこそ
浄土と呼べるのであります。
第一は、天才と凡人との差が消え去り
第二には賢愚や巧拙、貴賤の違いが消され
ついに第三には美醜の差も絶えてしまうのであります。

そこには凡人が凡人のままで救われ
愚かな者や拙者や貧しい者が
愚かなまま、拙まま、貧しいままで
一切活かされるその場所であることを告げるのでありまして
凡人も愚者も拙劣さも粗末さも
そのまま活かされる国が浄土なのであります。

綺麗に削ろうという「好」や、粗末すぎると考えられる醜が
共にこの世界では意味を失って
何事もそのままで活かされて
美しさに交わってしまうのであります。

私どもの心を最も惹きつけることは
優れざる人、貧しい品がなおかつ美しさと固く結ばれるその不思議さを
現下に見ているからであります。

私は民藝品が妙好人に近い意味を
工藝品中に占めていることを語りました。
また、妙好人が偉大な僧侶とその信心の生活においては
優るとも決して劣らぬものなのを語りましたが
事実幾多の民器に、著名な作者の仕事に劣らぬもののあることは
むしろ多過ぎるほどの実例が明らかに保障していることではないでしょうか。

有名な長次郎は、果たして井戸茶碗の無名な作者たちより
いつも優れた品を作り得たでしょうか。
有名な仁清は、果たしていつも民器よりも
遥かに優れたものを作り得たでしょうか。

心なくして生まれた民器の陶画を
もっと正当に見直すべきだということを申し述べているのであります。

それは丁度、無学な妙好人たちを
偉大な聖僧や学僧たちとともに
正しく見直すべきなのと同じだと存じます。
進んではここで、下々の人、下々の品が
かくも優れた美しさと、深い交わりを持つことを
更に一層の驚きをもって
眺めてよいのではないでしょうか。

(「美の浄土」より)



どんな美表現も心の外にはなく
畢竟美の世界もまた心法の圏外にはないと思われます。

真に美しい作こそは、難かしい幾多の仏句への
活きた具体例である事をも覚えました。

いたずらに西洋の後を追う在来の立場からは
既に脱却すべき時期に際会してはいないでしょうか。
まして日本人は
歴史的にも美鑑賞に長い伝統を持ちますので
美への新たな思索が日本から起って
これが西洋へのよき贈物ともなるなら
大変幸いだと思われます。

仏教の真理がいつも矛盾した命題を
そのまま調和したものとして受取るような考え方を致すからであります。


●「善人尚以往生、況悪人乎」
「善人なおもちて往生す、いわんや悪人をや」
喜左衛門井戸、ここではかかる天才の作ですら
凡人の作に劣っている事実が見られます。
悪人を凡人に、善人を天才に当て嵌めて考えますと
凡人の方が天才よりもっと美しい品を屡々生んできた事を
事実で示していて、もはや疑う余地がないのであります。
あるいは更に、在銘品と無銘品とに置き換えますと
人々に不思議に思われた法然上人や親鸞上人の言葉が
少しも嘘ではなくなってくるのを見出します。
なぜなら凡々たる工人たちの方が
名工すら及ばぬほどの名品を
易々と生んできたからであります。
誰も気づきます通り、在銘品より優れた無銘品が
夥しくこの世には存在しております。
どうしてこんな不思議な現象が起ってくるのでありましょうか。
想うに個人的天才たちは
自分の才能の上に立って仕事を致します。
これに反し凡庸な工人たちは
自己の力量などに便り得る作者ではなく
与えられた材料を素直に受け取り
己に任せずしきたりの作り方に任せて
迷いもなく狙いもなく
ただ作ってしまったに過ぎないのであります。

もし凡人である工人たちが
何か己の力を過信して、工夫を凝らしたり
我を言い張ったり、美しさを狙ったりして作りましたら
たちまち迷いや疑いの中に沈んで
その方向を見誤ったでありましょう。

我々は何も愚かであるその事を賛美すべきではないのですが
智に縛られて心の自由を失うことの方が
更に一層ひどい愚かさだという事を
はっきり知っておいてよいと思います。

ともかく知を誇ったり、自らを言い張ったり致す時
人間の心はとかく濁って参ります。


●「応無所住而生其心」
・・・凡ては無学な工人たちでありまして
美への狙いなどに心を住まわせる機縁を
何一つ持ってはおりませんでした。
そんなことに少しも心を煩わされてはいないままに
ただ作っていたのであります。
この事は何処にも心を住まわせていなかった事を意味します。
つまり固定した心の「住所」をどこにも持たなかった事になります。
そういう「無住心」からおのずから現われ出たのが
名茶器の美しさなのであります。

おそらく凡ての美しい作品は
何らかの意味でその源を「無住心」に発している事に気づくかと存じます。

喜左衛門井戸は
「応(まさ)に住するところなくして
おのずから生まれた」
品なのであります。


●「般若波羅密」
「仏説 般若波羅密 即非般若波羅密 是名般若波羅密」
甲は甲でない、これを甲と名づける。
「喜左衛門井戸」は今は名茶器として
多くの人々から公認されている品であります。
ところが第一に知っておいてよい点は
それが元来は全く茶器ではなかった事であります。

茶は茶に非ず、茶に非ずるに非ず、只茶なり
今の「茶」が、だらしない「茶」に沈んできましたのは
「茶がある」という事だけを示そうとして
「茶がない」という面が欠けているためだと存ぜられます。

何故、井戸茶碗が美しいのか
それは茶への執心と全く縁のない心境で作られた事に
素因すると考える方が正しいと思われます。

美とは畢竟「自在美」以外にはないのであります。

非茶器こそ茶器だ

つまり茶という影をだに留めていない「只の茶器」でありました。


●「求美即不得美、非求美即美矣」
「喜左衛門井戸」が決して美を求めて出来た茶碗でない事は事実であります。

「楽茶碗」の欠点は美しさへの趣向に捕らえられて
その執心のために、却って自由を失い
それが逆に醜さと結びついてしまった点であります。

造作する求心の中には自在の美は消え去ってゆきます。

「慎んで造作するなかれ」といった教えに悖るものであります。
美を追う事、必ずしも悪くはないでしょうが
人間の業の致すところ、すぐ美への執心に縛られて
有事に沈み、ついに足掻きが取れなくなり
これが素直な自由な美を
作品から奪ってしまうのであります。
かかる事実を知りますと、いとも不思議な禅僧たちの考え方が
少しも奇抜な考想ではなく、かえって自然な
また深い当然な言葉だと受け取ることが出来るように思われます。


●「念仏が念仏をす」
栃木県益子窯に「山水土瓶」と呼ばれる土瓶のある事は
既に御承知の方も多いことと存じますが
その山水絵が描かれる様を見ておりますと
描き手と描かれる山水とが相対しているのではなく
描く自らも、描く事も、何を描き
どう描くかをも忘れ去るほどに
手早く淀みなく描き続けております。
またこういう事情に入らないと
決して多くを早く描くことは可能にならないのであります。
この場合常識では描き手があって絵を描くのだと申しますが
真実にはそうでなく
描く事が描いているのであります。

「心は何処にいても解きほぐされて自在だ」
心に障りがなくなると、怖れというものがなくなり
心は全く自在になるというのであります。
「自在美」「無碍美」
こそ無上の美なのであります。


●「仏法無多子」
「多子無し」即ち「大した事もない」
事実「井戸」は、いずれも全く「大した事もない」
雑器だったからであります。
いわば「多子なき井戸」でありました。

雑器であったからこそ、かくも自由な天衣無縫の美を得て
天下の名碗になり得たのだと申したいのであります。

ただ一方は器物であり、他方は仏法であったという相違に過ぎず
畢竟は美と法とが一如だと、考えないわけにはゆかないのを切に感じます。


●「一心既無」
「どこにも執心する心が残らぬ」意味に解して頂いてもよいかと存じます。
仏法はいつも「無心」とか「無相」とかを説きますが
心に滞ればすぐ囚われの身となって
自在心を失うからであります。
もし美が自在美を離れてないとすれば
無心からのみ真の美が生まれる事が、自明となるのではないでしょうか。

実にこの自在美が「井戸」に無上の美を約束しているのであります。
そうして、この「自在」は「不生」に在ってのみ、充たされるのだと
「不生禅」は教えているのであります。
不生禅は人のみではなく、器物にもまた通じる
普遍の禅法と申さねばならないのを強く感じます。


●「凡夫成仏」
妙好人であった因幡の源佐は、ある時次のように申しました。
「珍しいこった、珍しいこった、凡夫が仏になるちゅうこたあ
こがな珍しいことが他にありましょうかなあ、
有難いぞなあ、南無阿弥陀仏」

讃岐の妙好人庄松に、ある人が
「近頃は耶蘇教が入ってこまる」と歎きますと
庄松は
「いや凡夫が成仏する以上の教えがあろうはずはない」
と答えました。

偉い人や善い人が仏に成れるのは常識にも適いますが
仏法は進んで凡夫が仏に成れる事を説いて止まないのであります。

名茶器を見ますと、面白い事には
時としては不完全さや疵さえも
美をいや増さしめているのを見出します。
茶人たちは歪みや疵にさえも、進んで美を見つめて参りました。
そうして不完全な品が不完全なままで
美をいや強めているのを見守っております。

凡夫が凡夫のままで美の浄土に迎接されている様が
そこによく形となって示されているからであります。
そうして「凡夫が成仏する」という以上の有難さはないように感じ
前に挙げました妙好人源佐や庄松の言葉が真に活きているのを
ここに見つめないわけには参らないのであります。
ここで美の国では
「凡器成美」
という言葉も成り立ち得るのを感じます。


●「禅句教則」
「巧匠留蹟」
ちょっと考えますと、巧さと偉さと非凡さとを示す作品こそ
美しいのだと思われがちでありますが
禅ではそんな性質に留まるものを
未だ二次的なものだと見るのであります。
またこれを「巧匠揮斧不露刃」とも申しました。
またこれに近い句に「好手手中無好手」
更にこの機微を記して「好手還同火裏蓮」。
ここで「火裏蓮」とは無染汚の蓮華の意で
真の好手は好手にすら囚われない無垢のものだと申すのであります。
これを形容すれば「巧妙無人識」
つまり誰にも識り得るような巧妙さを残すなら
それを真の巧妙とはいいかねるのを告げるのであります。
これを裏から見て「好心不得好報」

「技術を修得するのに三ヶ月かかったが
それを洗い去るのに約十年を要した」

「井戸」には沈黙があり、静寂がありますが
それは静寂をすら狙わないところから来る
必然の功徳だと申すことが出来ましょう。

「竹影掃階塵不動、月穿潭低水無痕」

「不風流処也風流」

「不塗紅粉自風流」


●「撥塵見仏時」
「仏もまたこれ塵」
塵(醜)を取り払って仏(美)を見ようとするが
そんな仏(美)はこれまた塵(醜)に過ぎない。

人為的に付け足した美しさは、新たな醜さではなかったでしょうか。

美しく作る事を狙って、凡ては美しくなれるのでしょうか。
強いて美しくせねば、美しくはならないのでしょうか。
自然な「そのまま」の相は、美を確約しないのでしょうか。

円空上人の刻まれた仏躰は
とてもよい例証になると思われます。
普通の仏師でしたら材を綺麗に削った上で彫りつつ仕上げを致します。
ところが円空上人は裂いたままの木、割ったままの材
即ち裂け目や我目のある材をすら
そのままで躊躇もなく使われました。

茶人たちは決して贅や瘤の醜さを払いのけて
そこに美しさを見ようとはせず
かえってその不完全さの中に
自由な美の深さを見つめていたのであります。

不完全な品でも何かそのままの自然さがありますと
その不完全さがただの不完全さではなく
活き活きしたものに変わって参るのであります。

(「法と美」より)





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