<吉田兼好語録>
吉田兼好(1283〜1350)

じっとして何かしないではいられない気持ちに惹かれて
終日硯に向かいながら、心に浮かんで来るとりとめもないことを
何ということもなく書きつけてみると、自分ながら妙に感じられるほど
(興がわいて来て)
何だか”もの”に憑かれたような気さえして筆を進める


お坊さんくらい(誰の眼からも)羨ましくないものはあるまい。
「人からは木の端のように思われることさ」と
清少納言が枕草子に書いているのも、ほんとうに尤もなことだ。
高官に昇った坊さんが威勢よくいばりちらしているのにつけても
えらいとは見えない。
そうした坊さんは、あの増賀上人がいったとかいうふうに
名誉・外聞にあくせくするようでみっともなく
仏さまの御教えにも背いているのではないだろうかと思われる。
こうした坊さんに対して、すっかり世間を捨ててしまった人は
却って望ましい点もあることだろう。

不幸のために悲嘆にくれている人が、剃髪したりするように
この世をはかないものと悟って仏道に入ったのではなくて
いるのかいないのかわからないくらいに門を閉じて
何をあてにすることもなく日を送っているのは
それはまたそれとして望ましいことだ。

この世で生命を持っているものを見渡しても
凡そ人間ほど寿命の長いものはない。
短命の例としては
かげろうは夕方を待たないで死に
夏の蝉も春秋を知らないで死んでしまう
そうしたものもあるのだからな。
(そうしてみると、人間は命の長いもので)
わずか一年の間でも閑かに送るという、そのことを考えてみただけでも
至極ゆっくりとした気持ちになれることだ。
それだのに、この命を、いくら生きても十分だと思わないで
死ぬのが惜しいなどと思うなら
たとえ千年を過しても、一夜の夢のように短い気がすることだろう。
どうせ住み通せないこの世の中に
老いぼれてみにくい姿になるまで生きのびたとしても何になろう。
命が長いと、それだけ恥も多い。
いくら長くても、四十に足りない年ごろで死ぬのがみっともなくないというものだろう。
その年ごろを過ぎてしまうと、容貌の醜いのを恥ずかしがる心もなくなって
人中に出しゃばったりすることを考え、余命いくばくもない身で子や孫を愛して
その子や孫が立身出世するあげくを見とどけるまで寿命を期待したりして
むちゃにこの世に執着する心ばかりが深くなって
物の情趣も何も、わからなくなって行くのは、あきれたもんだ。

世の人の心を迷わすことでは、色欲にまさるものはない。
人の心なんていうものは、全く馬鹿なもんさ。

教養のある立派な人が、ゆったりと閑かに住みこんでいるところは
さしこんでいる月の光も、一段と身に沁みるように見えるものだ。

同じ心を持っているような人と
しんみり話をして、おもしろいことでも、つまらない世間話でも
隔てなく話しあうとしたら嬉しいことに違いないのだが
そういう人があるはずもないから
ちょっとでも相手のいうことに逆らわないようにと、向かい合っているとしたら
(全く対話の興などというものはないのだから)
自分ひとりだけでいるような気持ちがするだろうか。

たったひとり、燈火の下で書物を広げて
昔の人を友とするのは、この上もなく、心の慰めとなることだ。

人間として、自分の身持ちを簡素にし、贅沢をさけて財宝も持たないで
この世の利欲に執着しないのが、立派だといえるのだ。
昔から賢い人で富貴になっていた人は稀だ。

何のなにがしとかいった世捨人が
「この世に何の執着を持っていない自分にも
ただ四季の風物の移り変わりに対する惜別の情だけはとても抑えられない」
といったのは、いかにもそう思われる。

字の下手な人が、まずいのを遠慮しないで
平気で手紙を書きちらすのはいい。
見っともないというので、人に書かせるのは煩はしい。

世間の名誉や利益にあくせくさせられて、静かにおちついた暇もなく
一生涯を苦しんで暮らすのは、馬鹿げたことさ。

昔からすぐれていた賢人・聖人も自分から卑しい位に甘んじていたり
いい時節に遭わないで、一生を終えてしまった人もまた多い。
結局、いちずに高い高官を望むことも
名利を求めるに次いで愚かなことだ。

もともと、誉められることは、悪口をいわれる原因だ。

才能は人間の煩悩が積もり積もってできたものだ、という。

人から伝えて聞き、人のまねをして知ることは、本当の智慧ではない。

真に至った人は、智もなく徳もなく功もなく名もない。

或る人が法然上人に
「念仏する時、睡けがさして来るために
念仏修行を怠ることがありますが
この障碍をどんな風にして矯正したものでしょうか」
と申しあげたところが
「目のさめている間念仏をなさい」
とお答えになったのは、全く尊いことだった。
また「極楽往生はきっとできると思うとできるものであり
またできるかできないかわからないと思っていると
どうなるかわからない」
とおしゃったそうだ。これも尊いお言葉だ。
「往生ができるかどうかを疑いながらも、念仏していたら必ず往生する」
ともおっしゃったそうだ。これも亦尊いお言葉だ。

老年が来てから、はじめて仏道修行をしようと考えて
年をとるのを待っていてはならない。
古い墓は、多くは年が若くて死んだ人のだ。
思いがけなく病気にかかって、急にこの世を去ろうとする時に
はじめて過去の誤っていたことが思い知られるというものだ。
その誤りというのは他のことでもない。
早速にしなければならないことをゆっくりし
ゆっくりしていいことを急いで暮らした過去のことが後悔せられるのだ。
その時になって後悔しても、何の甲斐があろうか。
人はただ、死が迫っていることを、心にしっかりと持って
わずかの間も忘れてはならないのだ。
そうした心掛けを持っていたら
この世の濁を受けることも多いことがどうしてあろうか。
また仏道修行の心もまじめになれないことがどうしてあろうか。

蟻のように集まって東西に急ぎ、南北に走っている人間ども。
身分の高いのもいるし、卑しいのもいる
年をとったものもいるし、若いものいる。
しかし誰でも、行くところがあり、帰る家もある。
夕には寝て、朝には起きる。
彼等がせわしそうにしていることは一体何だ。
生命を貪り求め、利欲を求めて、飽きる時がない。
養生したところで、何を将来に期待しているのか。
待ち受けているものは、結局、老と死とに過ぎない。
その老と死のやって来ることは速いもので
一瞬といった短い間もとどまることはない。
これを待っている間は、何の楽しみがあろうか。
迷っているものは、この老と死の来ることを恐しく思わない。
名誉や利欲を求めることに心がくらんで
行く先の短く冥土に近いことに気づかないからだ。
愚かな人間は、この死の近づくことをまた悲しんだりする。
この世は常住不変であるとばかり思って
刻々に物は変化するという道理を知らないからである。

世間から評判を受けることも高く、勢力のある家に
悲しみごとや喜びごとがあって
大勢の人の訪問する中に、坊さんがまじって案内を乞い
門のあたりに佇んでいるのを見ると
そんなことまでしなくてもよさそうなものだのにと思われる。
それ相当な理由があっても、坊さんは世間の人との交際は疎遠であった方がいい。

人の心は素直ではないから、自然偽がないわけではない。
しかし中には自然に生まれついて正直な人も、ないことがあろうか。
自分は素直でなくても、他人の賢を見て羨むのが、世の常だ。
しかし、極めて愚かな人は、たまたま賢い人を見ると、これを憎んだりする。
「大きな利益を得るためには、小さな利を受けないで
表面を飾って、いい評判を得ようとするんだ」などと悪口をいう。
自分の心が賢者の心の持ち方に反しているから
こんな悪口をいうのだが、これでもって、すっかりわかってしまう。
というのは、こんな人間こそ、論語にいう、最も愚かな性分の人で
どんなに修行しても賢に移ることは、とてもできないし
また仮にの利と名づけるものに対しては
どんな小さな利益でも捨てることのできない人間でもあり
同時に賢人のまねは仮にもできない人間だ。
狂人のまねだといって大路を走ったら、そのまま狂人だ。
悪人のまねだといって人を殺したら、やはり悪人だ。
それと同様に、千里の馬を見習う馬は
千里の馬の仲間であり、舜を見習う人は舜の仲間だ。
見せかけだけでも賢人のまねをする人は、やはり賢人といえる。

「牛を売る人がいる。買う人は、明日その代金を払って、牛を引き取ろうという。
ところが、その夜の間に牛が死ぬ、ということになると
買おうとする人に利があり、売ろうとする人に損がある」
と語っている人がある。
これを聞いて傍にいるものがいうには
「牛の持主は、なるほど損をすることにはなるけれどもまた大きな利も得ている。
そのわけは、生きているもので
自分の死の近いことを知らないのはこの牛が全くいい実例だ。
人間だって同じことだ。
思いがけなくも牛は死に、思いがけなくもその持主は生きている。
そこで牛の持主は、一日の命は万金にも代え難いことを悟ると同時に
生命の貴さに比較すると、牛の代金などは鵞毛よりも軽いことを悟ることができる。
だから、万金に代え難い生命を儲けて
一銭に等しい牛を失う人に、損があるとはいえない」
というと、その場にいあわせた人は皆嘲って
「その道理は、必ずしも牛の持主に限ったことでもないだろう」
という。
その人がそこでまたいうことには
「だから人間が、死を嫌うくらいなら、生命を愛さなくてはならない。
生きながらえている喜びは、毎日楽しまないでいいものか。
愚かな人は、この楽しみを忘れて、御苦労様にも外の楽しみを求め
この存命の喜びという財宝を忘れて、無分別にも
他の財を貪ろうとしていたのでは、満足することはない。
生きている間、生を楽しまなくてしかも死に臨んで死を恐れたら
これほど矛盾した理屈があるものか。
誰でもみんな生を楽しまないのは、死を恐れないからだ。
いや、死を恐れないのではなくて、死の近いことを忘れているのだ。
しかし、もしまた
生死というような差別的な現象の世界に捉われないという人があるなら
その人は真の道理を悟り得た人といっていい」
というと、みんないよいよ嘲る。

高僧のいいのこしておいたことを書きつけて
一言芳談とか名づけた書物を見ましたところ
なるほどなと思われたことは
○したものかしらん、しないでおいたものかしらんと思うことは
大抵はしない方がいいんだ。
○死後の幸福(極楽往生)を願うものは
糠味噌桶一つでも持つのはけしからんというものだ。
いつも携えるお経にしても、毎日拝む仏像に至るまで
いい物を持つのはつまらないことだ。
○俗世を遁れて仏道修行をする人は
何はなくても不自由を感じない方法を考えて暮らすのが
一番いい暮らし方なんだ。
○位の高い人は低い人の心になり、
智のある人者は愚かな者の心になり
金持ちは貧乏人の心になり
才能ある人はない人の心になるのがいいんだ。
○仏道を願うということは、特別のことではない。
暇のある身になって、俗世のことを心に掛けない、これがまず第一の方法だ。
この外にも、いろいろあったが、記憶していない。

わずかな時間を惜しがる人はない。
これは、惜しむ必要のない道理をよく知っているから、そうなのか。
或は愚かであって時間を空費することを何とも思わないために惜しまないのか。
(前者に対しては、かれこれいわない)
後者、即ち愚かで怠る人のためにいってみるなら
一銭というと、極めて少ない額だが
これを積みあげると貧しい人を金持ちにすることもできる。
だから商人が一銭でも粗末にしまいとする気持ちは大したものだ。
同様に、一瞬間は、気のつかないほどの短かな時間だといっても
これが止む時もなく経過すると、命を終える臨終の時が忽ちにやって来る。
だから道に志す人は、遠い、先々の月日を惜しむはずのものではなく
目前の一瞬間が無駄に過ぎることを惜しまなければならない。
もし誰かやって来て
「お前の命は明日はきっとなくなるに相違ない」と告げ知らせたとしたら
今日の暮れる間、何を頼み、何ごとをするだろうか。
吾々の生きている今日の日が、そうした場合と果して異なるか、どうか。
同じことなんだ。
しかも、吾々の生活では、一日のうちに、飲食する、便所に行く
眠る、話をする、歩くといったような止むを得ないことで時間を費やすことが多い。
その余りの暇が大してありもしないうちで、無益のことをし
無益のことをいい、無益のことを考えて、時間を過すばかりでなく
一日一日を無駄に費やし、一日から更に一月に亙って無駄に費やし
結局一生を無駄に送るのは、一番愚かなんだ。

四十歳を越えてしまった人が
艶っぽい色好みの方面にたまたま夢中になっても
それを人に知られないようにしているなら、それも仕方がない。
言葉にまで出して、男女の関係のことや
他人のそうして方面の噂まで、おもしろがって喋るのは
年甲斐もなく見苦しいことだ。

友とするのに、不適当なものが七つある。
一つには身分の高い人
二つには若い人
三つには無病で身体の強い人
四つには酒好きの人
五つには勇気にはやる武士
六つには嘘をつく人
七つには慾の深い人。
友としていいのには三つある。
一つには物をくれる人
二つには賢者
三つには智慧のある友。

賢そうな人も、他人の身の上ばかりかれこれ推量して
却って自分のことは知らないものだ。
自分を知らないで、自分以外のものを知るという道理は
あるはずのものではない。
だから、自分を知っているのを、物を知っている人といわなくてはならない。
自分の顔つきがみっともなくても知らないし
心の愚かなことも知らないし
芸のまずいことも知らないし
身分の卑しいことも知らないし
年をとってしまっていることも知らないし
病に犯されることも知らないし
勿論、死の近づいていることも知らないし
行う道の未熟なことも知らないし
自分の欠点も知らないとなると
自分に対する世間の悪評を知らないのも当然だ。
但し、顔つきは鏡でわかり、年は数えればわかる。
自分のことは知らないではないが
知っていても、どうにも方法がないから
知らないのと同じだといったものだろうか。
しかし、みっともない顔つきを改めろ
とった年を取り返して若返れというのではない。
自分の拙いことを知ったなら、どうしてさっさと身を引かないのか。
年を取ったと知ったなら、どうして引退して安楽にしないのか。
修行がまだ至らないと知ったら、どうして注意を集中して勤めないのか
と、いうのだよ。

月や花に限らず、世の中のことは、何でもすべて始と終とがおもしろい。
男女の情愛についても、ただ逢って楽しむばかりが恋といえるわけではない。
逢えないでそのままになってしまったつらさを思い
はかない契を怨み歎き、長い秋の夜を一人待ち明かし
或は遠く離れている愛人の上に思いを馳せ
或は浅茅の生えている荒れはてた住まいに昔の恋を追想する
こうした気持ちのわかるのを、ほんとうに恋の情趣を解することだといっていい。
煌々と澄み渡っている満月が、千里の外まで照らしているのを眺めるよりも
明け方近くなって待ちに待って出た月が、大変に趣き深く、青みを帯びているようで
或は深い山の杉の梢にかかっている木の間越しの光
或は時雨を降らせた紫の雲の間に見え隠れするなど
この上なく情趣が深い。
椎の木や白樫などの、まるで濡れているように艶のある葉の上に
月の光がきらきらと照っている情景は、身にしみじみと感じられて
こんな場合、風流を解する友だちが一緒にいたらなあと
都が恋しく思われる。

自分の死んだ後に財を遺すことは、智慧のあるもののしないことだ。
くだらないものが蓄えて置いてあるのも、みっともないし、いいものだったら
こんなものに心を惹かれていたのだろうと、はかない感じがする。
そんなものが、うるさいほど多いのは、愈々以って情けない。
「自分が貰っておこう」などいう奴がいて、死後で争っているのも、体裁が悪い。
死後誰それにやろうという積もりのものであったら
生きているうちに譲ってやるはずのものだ。
朝夕なくてはどうにもならないものは仕方がないが
その外のものは何も持たないでいたいものだ。

芸能を身につけようとする人が、まだよくもつかないうちは、なまじっか
人に知られまい、内々で十分に習って後、人前にも出るようにしたら
人からも随分おくゆかしく思われるだろうなどと(誰でも)日頃いうようだが
こうしたことをいう人で、一芸でも習得することのできる人は一人もいない。
まだ全然未熟なうちから、上手な人の中にまじって
悪口をいわれても笑われても意に介しないで
何をいわれようが気強く平気で押し通して心掛け励む人なら
生まれつきの天分はなくっても
道にこだわらず無法なこともしないで年季を入れるから
器用ではあっても心掛け励まない人よりは
却ってしまいには、上手といわれる地位にも上り、芸も円熟して人にも認められ
天下に並ぶもののないという評判をも取るのだ。
天下に聞こえた芸能の達人でも
初めのうちは不器用な評判があったり、ひどい欠点もあったのだ。
だが、その人がその道の規則を正しく守り
これを重んじて勝手な振舞いをしないで(精進すると)
結局は世の大家として万人の師となることは
どの道においてもかわるはずのものではない。

或る人がいうことには
五十になるまで上手にならないような芸は棄ててしまうがいい。
その年では励んで習うこのとできる将来もない。
下手でも老人のすることに対しては誰も笑えない。
大勢に交じっているのも、愛嬌がなくみっともない。
凡そ年をとったら、何ごとでも仕事はやめて
悠々としているのが見よくもあり、また、そうもありたいことだ。
世間の俗事に関係して、生涯を暮らす人は
まず凡そ馬鹿野郎だ。

春が来て夏になり、夏が終って秋が来るのではない。
春はそのまま夏の気を生み出し
夏から既に秋の気が通い、秋はそのまま寒くなるが
十月はいわゆる小春日和の天気で
草も青くなり、梅も蕾を持つようになる。
木の葉が落ちても、落ちてから芽が出るのではない。
下から芽生えて来て、それがつつ張るのに堪えきれないで葉が落ちるのだ。
変化を迎える気が、下に待ち受けているのだから
変化を待ち受ける順序も頗る早い。
生まれ、年をとり、病に罹り、死ぬ、これが移って来るのは、これ以上に早い。
四季はそれでも一定の順序で従ってくる。
死ぬ時期は順序を待たないで来る。
死は、前から来ると限ったものではない。予め背後に迫っている。
人は皆死の来ることを知っていながら
しかも急にやって来るとは思っていない内に、実に突如として来る。
沖の方まで干潟になって広々している時には
いつ潮が来るとも思われないが
突然に磯の方から潮が満ちて来るのと同じようなものだ。

「降れ降れこ雪、たんばのこ雪」
ということばは、米を搗いて糠を篩い出したのに似ているから、粉雪という。
だから、「たまれ、こ雪」というはずなのを誤って「たんばの」というのだ。
続いて、「垣や木のまたに」と歌うのがいいと或るものしりがいった。
昔からいっていたことなのかしらん。
鳥羽院が御幼少でいらした頃、雪の降る時こうおっしゃったよしが
讃岐の典侍の日記に書いてある。

或る人が自分の子どもを坊さんにして
「学問をして因果の理法をも知り、説経などして
世を渡るための手段にもしろ」といったので
子どもは親の言いつけ通りの説経師になろうとするために
まず馬に乗る稽古をしたそうな。
どうせ輿や車を持たない自分などが
導師として招待せられる場合、馬など迎えによこしたりした場合
尻が落ちつかなくて落ちでもしたら残念なことだろうと思ったからだ。
次に仏事の後で、酒などをすすめられるようなことがある場合に
坊さんとしてまるで芸のないのは
施主の興ざめに感じるに相違ないというので
早歌ということを習ってそうな。
この乗馬と早歌の二つが次第に上達の境地に達したので
もっともっと上手にしたく感じて
力を注いでいるうちに、とうとう大切な説経など習う暇もなく
年をとってしまったそうな。
この坊さんだけでなく、世間の人々にも、一般にこれと同じことがある。
若い頃は、何ごとにつけても立身出世し、立派な道をも成し遂げ
芸能も身につけ、学問をもしようと
将来遠く先の先まで計画しているいろいろなことは
心には掛けながらも、一生は長いものだと怠りなまけて
まず直面している目の前のことばかりまぎれて月日を送るので
どれもこれも成就することもないうちに年をとってしまう。
結局は何の名人にもならず、予期したように立身出世もせず
後悔しても齢は取り返しのつくものでないから
例えば坂を走って下る車のように、さっさと老衰して行く。
だから一生のうちに、主としてこんな風にしたいと思う多くの事がらの中で
どれがまさっているかをよくよく考え比較して
自分にはこれが第一と考え定めて
その外は思い切ってしまって一つのことに精進しなければならない。
一日のうち、一時のうちでも、後から後から起こって来る沢山の仕事の中で
少しでも為になりそうなことに従事して、その他はすっかり捨ててしまって
大切なことを急いでしなければならない。
どれもこれも捨てないようにと、執着していたのでは
一事も成就するはずはない。

或る金持ちがいうには
「誰でも一切のほかのことはさしおいて
まっしぐらに財産を作らなければならないのだ。
貧乏では生きている甲斐もない。金持ちだけが人間だ。
まず、財産を作ろうと思うなら、何はさておき、金持心理の修行をする必要がある。
その心理というのは、ほかの事ではない。
人間は永く生きられるものと思わなければならない。
その逆で、仮にも、人生朝露の如しなどと考えたりしてはならない。
これが第一の注意だ。
次には、一切何ごとも自分の願いどおりにしてはならない。
誰でもこの世に生きているについては自分のことにつけ
他人のことにつけ、欲望が限りなく起こる。
その欲望に惹かれて、思う通りにしようと考えたら
百万の銭があっても、果して落ちついていてくれる銭がどれだけあるか。
欲望には限りがなく、財産には尽きる時がある。
際限のある財産を以て際限のない欲望に従うことは
到底できるはずのものでない。
だから欲望が心の中に生じることがあったら
自分を滅ぼさなければならない悪念が表れたと思って
堅く慎み恐れて、どんな小用にも金を費やしてはならない。
次に金銭を家来か何かのように考えて、勝手に使用するものと思ったら
何時までも長く貧乏の苦しみから免れぬことはできない。
主君のように、また神のように畏れ尊んでおいて
決して思い通りに使用してはならない。
次に恥ずかしい目に会うことがあっても、怒ったり恨んではならない。
次には正直で約束は固く守らなければならない。
この趣旨を心にしっかりと持って利を求める人には
財産がやって来ること、例えば火が乾いているものにつき
水が低い方に流れて行くように、容易なことであるはずだ。
さて、金銭が溜まって次第に殖えて行くと
酒宴・音楽・女色には心も向けず、居るところを飾らず
欲望は成し遂げなくても、心はいつでも楽しい」
といった。
一体人間は欲望を成し遂げようとして財宝を求めるのだ。
金銭を財宝とすることは、それで以て欲望をかなえることができるからだ。
欲望は起こってもそれを満足させることができず
銭はあっても使用しないなら、全く貧乏人と同じだ。
そんなことで、何を楽しみとするのか。
この金持の掟は、全く、世間的な、人間的な欲望を切り棄てて
貧しさを悲しんではならないという意味にもとれる。
欲望を満足させて楽しみとするよりも、寧ろ金銭のない方がいい。
廱や疽を病むものは、それを水で洗って楽しみとするよりも
いっそのこと、そんな病気に罹らない方がいい。
こう考えてくると、貧乏も富裕も区別はない。
要するに、悟りは迷いに等しい。
大欲は無欲に似ている。

四条の中納言隆資卿が仰らせることには
「豊原の龍秋は、音楽の道では尊敬していい人だ。
先日やって来ていうには
『浅薄至極な、また甚だ不躾なことですが、横笛の五の穴については
聊か不審なところがありましょうかと内々こう存じております。
そのわけは、千の穴は平調で、その次の五の穴は下無調です。
その中間に勝絶調が挟まっている。
また上の穴は双調で、次に鳧鐘調を置いて、夕の穴は黄鐘調です。
その次に鸞鏡調を置いて、中の穴は盤渉調、中と六との間に神仙調がある。
このように穴と穴の間に、どこにも一調子が省かれているのに
五の穴だけが、次の上の穴との間に一調子も持たないで
しかも穴と穴との間隔の置き方が他の部分と同じであるために
その音声は耳に快く響かない。
だからこの穴を吹くときには、かならず口の加減をして、穴を少し向うへ廻して吹く。
廻しきらないと、調子に合わない。
この五の穴がうまく吹ける人は、めったにない』
といった。
実によく考えたもので、ほんとうにおもしろい。
先輩が後輩を畏れるということは、このことじゃ」
とおっしゃった。
後日に景茂が申しましたことは
「笙は調律してあるのを持っているから、ただ吹くだけだ。
笛は吹きながら息の中で、一方から調律しながら吹いて行くものだから
どの穴にも口伝があり、それを心得た上に、吹く人の天性の器用さを加えて
注意して吹かなければならないことは、必ずしも五の穴に限ったことではない。
一概に穴を向うへ廻して吹く必要があるばかりでもない。
吹き損なったら、どの穴の音も快くは響かない。
上手な人は、どの穴でも調子に吹き合わせる。
音の調子が、他の楽器に合わないのは
吹く人の罪であって、楽器が悪いのではない」
といった。

八つになった年、おやじにたづねていうには
「仏とはどんなものなんでしょう」というと
おやじの曰く
「仏は人がなったのさ」。
再び
「それでは、人はどうして仏になるのですか」とたづねると
おやじもまた
「仏の教によってなるのだよ」と答える。
また、たづねて「その教えてござった仏に対しては
どんな仏が教えなさったのでしょうか」と。
その答え
「それもまた、前の仏の教えによっておなりになるのさ」と。
また、たづねて
「その教え始めでござった最初の仏は、どんな仏なんでしょう」というと
おやじ
「天から降ったか、地から湧いたかだろうな」
といって、えへへと笑う。
おやじも
「子供に問いつめられて、返事もできなくなっちまいました」と
大勢に話しておもしろがった。

(「徒然草」より)




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