芭 蕉 庵

2006年5月吉日



”不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず
まことによく立ちたる姿なり。
代々の歌人の歌を見るに、代々その変化あり。
また新古にもわたらず、いま見るところ昔見しに変らず
あはれなる歌多し。これまづ不易と心得べし”

”静かなるものは不変の姿なり。動けるものは変なり”

”松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ”

”高く心を悟りて、俗に帰るべし”

”旅、東海道の一筋も知らぬ人、風雅におぼつかなし”

”作に過ぎて心の直を失ふなり
心の作はよし、詩の作は好むべからずとなり”

”一世のうちに秀逸の句三五あらん人は俳者なり。
十句に及ばん人は名人なり”

”きのふの発句はけふの辞世、けふの発句はあすの辞世
わが生涯いひ捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし”

”まことの歌仙には、利も徳もあるべからず”

”予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし”

”句は天下の人にかなへることはやすし。
一人二人にかなゆることかたし。
人のためになすことに侍らばなしよからんと、たはれの詩あり”

”古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ”

”たださわがしからぬ心遣ひありたしとなり”





芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて
江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。
そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し
多くの名句や「奥の細道」などの紀行文を残しています。
この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が
生い茂ったところから”芭蕉庵”と呼ばれ
芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されましたが
幕末から明治にかけて消失しました。




”ふる池や蛙飛びこむ水の音”(貞享3年吟)




”芭蕉稲荷神社”
大正6年(1917年)「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し
この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。




”さまざまのこと思い出す桜かな”




「芭蕉庵史跡展望庭園」




うむ・・・隅田川の景色も変わったものだ・・・




”採茶庵跡”
芭蕉の門人杉山杉風の別荘。
芭蕉は深川の草庵を人に譲り
ここから「奥の細道」の旅に出発しました。

さあ・・・行きましょう!!




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