< 清 水 囃 子 >


東大和市の近傍の土地には
葛西囃子・神田囃子の系統とは異なったものといわれた
「重松流鈴木流」の二つの祭囃子がある。

「重松流」は”じゅうまばやし”と呼ばれた祭囃子で
江戸末期の安政年間(1854〜1860)に
武蔵国入間郡所沢植野宿の古谷重松が
江戸の深川囃子と葛西囃子を基として
独自の旋律を考案したものだという。
曲目は
屋台囃子・にんば・四丁目・鎌倉・昇殿・国固めの五つであり
地があって変化部分をからませる(からみ)、一の切から四の切まであって
「からみ」をそれぞれの「きり」のあとに添える。
昇殿・鎌倉・国固めの三曲を静物と呼び
各曲目には仮面による踊りが付く。
「にんば」には「おかめ」、「四丁目」には「ひょっとこ」
「鎌倉」には「きつね」、あるいは獅子などが付くのである。
重松囃子の系統は
一説には、目黒囃子の系統であるともいわれるが、明らかでない。

「鈴木流」は、天保年間(1830〜1843)に
武蔵国多摩郡小金井村の貫井の住人鈴木三郎右衛門が仲間数名と共に
現在の千歳船橋に住む軍事師より囃子の奥義を
伝授されて創案した祭囃子であると伝えられ、貫井囃子とも呼ばれている。

この重松流・鈴木流は
両者共に在来の江戸の祭囃子と較べると
囃し方や出し物の所作において多少の異いがあるが
総体的な内容は余り差異がないので
いづれもその源流は葛西囃子・神田囃子であろう。

東大和市では
もとは狭山地区と清水地区の一部の宅部に「鈴木流」の囃子があり
木地区には「重松流」の囃子があったが
今では、それ等の祭囃子は絶えている。
しかし、現在の東大和市清水地区には
「清水囃子」と称する祭囃子がある。
この祭囃子は、幕末頃に武蔵国多摩郡高円寺村の住人で
宮大工の半次郎という者が
同郡清水村の村民たちの要望によって
高円寺村付近の祭囃子を伝えたのであった。
それ故、清水村の人々は
その囃子を「高円寺流」と呼んだ。

杉並区内の祭囃子で
幕末頃からあったと伝えられた囃子は
「阿佐谷囃子・大宮前の囃子・荻窪囃子・井草囃子」などである。

「阿佐谷囃子」
幕末の頃に世田谷の船橋から阿佐谷村に
伝わって村民の唯一の娯楽となり
青少年の不良化防止の手段として奨励せられ
やがて、付近の馬橋・中野・天沼・鷺宮・貫井・荻窪
遠くは所沢・青梅方面の諸村にも広まって
それぞれの祭りの夜を賑やかにしたということである。

「大宮前の囃子」
安政3年(1856)頃に
下高井戸村の齋藤近太夫
(本名は確性、下高井戸村八幡神社宮司齋藤和夫氏の4代前の人)
が伝えたといわれ、五人囃子、早間で葛西囃子の系統という。

「荻窪囃子」
阿佐谷囃子の流派といわれるが
何時頃に伝えられたのかよく判らない。

「井草囃子」
嘉永年間(1848〜1853)に
阿佐谷村より伝えられた中間流であり
この囃子は後に
石神井・天沼・荻窪・吉祥寺などに広まったようである。
今の高円寺の氷川神社の例祭には
上高井戸の齋藤卯一氏が
囃子連を連れて来て祭囃子を演奏しているが
その囃子は「大宮前の囃子」であって
高円寺流の伝来の祭囃子ではない。

以上の通り
高円寺にはこれまでに独自の祭囃子はなかった。
然るに「清水囃子」を何故に「高円寺流」と称したのか。
その由来を案ずるに
清水村(現在の東大和市清水地区)の農民の有志たちに
祭囃子を伝授した半次郎が、高円寺村の住人であったから
囃子を伝授した者の在所に因んで
清水村民がその囃子を「高円寺流」と呼んだのであろう。

半次郎が清水村の村民に伝授した祭囃子は
阿佐谷囃子と同じく
大太鼓(大胴)が一人、〆太鼓(小太鼓)が二人
笛が一人、鉦(よすけ)が一人の5人囃子であって
時に拍子木をつけることがある。
しかし、囃子の順は阿佐谷囃子とは異なり
清水囃子では
「さんば、居囃子、にんば、国固め、鎌倉」の順に囃される。
阿佐谷囃子は「中間」であるが
清水囃子は「中間」の外に一部に「早間」(皮違いあり)が入る。

出し物には
馬鹿面踊り、獅子舞、天狐などがある。
清水囃子についての詳しい事は後述するが
要するに「清水囃子」
阿佐谷囃子を主とし、大宮前の囃子の一部を折衷した囃子であって
その系統は杉並の阿佐谷囃子の分派に属する祭囃子であると見られる。

(「清水囃子調査概要報告書」より)




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