< 日 本 の 芸 術 論 >


〜詩歌論〜

この、歌を詠むということは
ひとり人間だけではないので
花に鳴く鶯や水に住んでいる河鹿の声を聞くと
生あるものすべて
誰か歌を詠まないものがあろう。
力をも入れないで
天の神や地の神を感動させ
目に見えない鬼神をもあわれだと思わせ
男と女の仲をもむつまじくさせ
勇猛な武士の心をも慰めるものは
歌である。
(紀貫之)


高い境地によく到達している人びとがいわれた趣意は
つまるところは言葉に直接には表現されていない余情
姿にはっきりとは出ていない景気であるということになろう。

霧のとぎれた間から秋の山を眺めるというと
見えるところはほのかであるけれど
隠れている奥が見たいと思われ
どのように全山もみじして美しいであろうかと
限りなく推量されて見に浮かぶ姿は
ほとんどはっきりと見るよりもすぐれているであろう。
(鴨長明)


余韻というのは
一首を読み終わって後も
そこに歌われていることがらが心に沁み眼前に浮かぶようで
名残がある心持がするのをいう。
(石原正明)


春の花のあたりに霞がたなびいたり
秋の月の前に鹿の声を聞いたり
垣根の梅に春の風が匂ったり
峰のもみじに時雨が降りそそいだりなどしているようなことが
いい歌にはイメージとして添っているのである。

心の持ち方が大切であります。
平素から花が散ったり葉が落ちたりするのを見ても
あるいは草木におく露を眺めても
この世の中は夢まぼろしのようなものなのだということを心に悟って
ふるまいをやさしくし
幽玄ということを心にとめなさい。
(兼載)


古の歌はみな実だけがあって花を忘れ
近代の歌は花だけを心にかけて
実には目もかけないといったようであります。

心と詞とが共にいいのを
いい歌だとはいうべきでしょう。
心と詞との二つは
鳥の左右の翅のようになるべきだというように
私は思いついたことであります。
ただし、心と詞との二つを共に兼ねている歌は問題はありませんが
どちら一つを欠くとすると
心が欠けているのよりは
詞の拙い方がましでありましょう。

歌の正しい道は
ただ自分で悟るべきことであります。
他人がこれこそというのに
決してよるべきではありません。
(藤原定家)


わざと優美に詠もうとすることを
ぜひにも好み求めるというと
最も見苦しいことになる。
歌は優美であることをもって
本体とするとこではあるが
それでもさらにその根本はといえば
自分の心によることであるから
とくに意識して優美を好み詠むとか
好まないとかいうことに左右されてはならない。

これは歌の道だけに限ったことではない。
管弦・音曲なども、おもしろくしようとして
意識して技巧を弄すると
必ず聞きにくいものである。
ただ強く正しくすることの年功を積むというと
おもしろくなるように
歌も心をもととして
その上に詞を求めるというと
自然に優美なこともあるのである。

浅き心をもちて、深き心をそしる
最もおそるべきことなり。
(順徳天皇)


わが師芭蕉の風雅の道たる俳諧に
万代不易すなわち世を通じて変わらないというものがあり
また
一時の変化すなわちその時々に変化し流行していくというものがある。
その根本というのは”風雅の誠”である。
不易ということを知らなければ
本当に風雅を知っているとはいえない。
不易というのは、新しい古いにもよらず
変化流行にも関係なく
本当に立派な姿のものをいうのである。
歴代の歌人の歌を見るのに代々その変化がある。
また、新しい古いということとは無関係に
いま見るところが昔見たのに変わらず
感動を覚える歌が沢山ある。
これがまず不易というものだと心得るべきだ。

かりそめにも古人の残りかすをまねしたりしてはならない。
四季が移って行くように、万物は変化していく。
すべてのものがそのようであるのだ。
俳諧も例外ではないというだけのことだ。

天地万物が変化していくということは
風雅の道たる俳諧のもととなることであるという。
静かなるものは不変の姿であり
動いているものは変の姿である。
その変化しているものは
変化しているその時間のなかでとめなければ
とまらないものである。
とめるというのは
見とめ、聞きとめるということである。

物象の真髄が光のようにひらめくとき
それが自分の心の中で
消えてしまわないうちに表現すべきである。

松の事は松に習へ
竹の事は竹に習へ
(服部土芳)


文章は、ただ意味のわかるのを根本とするものですから
誰が聞いても、少しも迷うことなく意味のわかるというのが上手です。

「誠」というのは「真心」です。
その真心の何たるかを知れば、自然に成功するものです。
その真心はどうして得るかというに
名利を求める心を捨てるのが一番近道です。
(詠草奥書)


歌には、まづ心をよく澄ますは、一の習ひにて侍るなり。
(藤原定家)


情詞につきて少しの手がかり出来なば
それにつきて案じゆけば
おのづから心は定まるものと知るべし。
とかく歌は、心さわがしくては詠まれぬものなり。
(本居宣長)


芭蕉曰く
高く心を悟りて、俗に帰るべし。

つねに我を忘れず、心遣ひあることなり。

旅、東海道の一筋も知らぬ人、風雅におぼつかなし。

ある人の句は、作に過ぎて心の直を失うなり。
心の作はよし、詞の作は好むべからずとなり。

句は天下の人にかなへることはやすし。
一人一人にかなゆることかたし。
人のためになすことに侍らばなしよからんと、たはれの詞あり。
(服部土芳)


芭蕉曰く
一世のうちに秀逸の句三五あらん人は俳者なり。
十句に及ばん人は名人なり。

名人は危うきところに遊ぶ。
(森川許六)


芭蕉曰く
昨日の発句は今日の辞世
今日の発句は明日の辞世
我が生涯いい捨てし句々
一句として辞世ならざるはなし。
(文暁編)


まことの歌仙には、利も徳もあるべからず。
(心敬)


予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。
衆にさかいて、用ふるところなし。
(芭蕉)


歌の本体、政治をたすくるためにあらず
身ををさむるためにもあらず
ただ、心に思ふことをいふよりほかなし。
(本居宣長)


名よりて物を貴むは、学者の憎むことなり。
(賀茂真淵)


歌は、ただ一言葉にいみじくも深くもなるものに侍るなり。
(藤原俊成)


一文字もたがひなば、あやしの腰折れになりぬべし。
(鴨長明)


歌もただ文字一つにて、あらぬものに聞こゆるなり。
(正徹)




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