Brasilidade(ブラジリダージ=ブラジル人気質)を身に付けるための楽曲




35年近く内外のブラジル音楽を聴いて来た私も呆れる程、実にマニアックな人が多い(笑)、日本のブラジル音楽界。(うんうん、絶対に当たっていますよね。)
今回は、あなたの目指しているブラジリダージが本物かどうか、音源知識のテストをしてみましょうか?

3カ月間ブラジルに滞在し、先日帰国した元・生徒のIさんから、ブラジル在住47年、サンパウロの有名なブラジル音楽評論家、坂尾英矩(さかお・ひでのり)さんからのお薦めテープを、MDに落として届けていただきました。タイトルは、「Brasilidade(ブラジル人気質)を身に付けるためのテープ」とあります。

ジョアン・ジルベルトやバーデン・パウエルを神様扱いし(神様には違いないのですが、実は、ブラジル音楽の神様はゴロゴロいるのです。)、それらばかり聴いている、そこのあなた!それから、サンビスタを気取っているあなたも!こういった、大ベテランのプロの「通」が聴いて来た楽曲も、知っておくと良いと思います。私も、知らないものが結構ありました。果たして、音源が入手できるかどうかが問題ですが、ちょっとご紹介しましょう。さあ、あなたはどれ位、ご存知でしょうか?

以下、ボサノヴァの生き証人、坂尾さんの手書きの解説です。基本的に、ほぼ原文のまま掲載させていただきます。曲名が書かれていないものもありますが、
これらの文章だけでも、大変参考になりますよ。


(A面)

1. メドレー:O Surdo〜Nao deixe o Samba morrer
ボサノーバ全盛時代に沢山出現したピアノ・トリオの中で一番人気が高かったMilton Banana Trioです。ドラムはバナナ(故人)、ピアノはサンパウロで有名なCido Bianchi
(シード・ビアンキ)で、後に自分でJONGO TRIOを組みました。バナナは僕の友人で、シードとは僕は彼のトリオでベースを弾いていた仲です。
ソフィスティケートなサンバの軽快なノリは楽しいです。

2. Pedacinho do Ceu (CHORO)
カバキーニョの名手Waldir Azevedo(故人)の古い名曲ですが、アディルソン・ゴドイのコンボがモダンな編曲でボサノーバ風に味付けてます。歌手はサンパウロの中堅実力派
Silvia Mariaで、表現が素晴らしい。僕の好きな歌手です。

3. Longe dos Olhos
古いサンバの曲ですが、アレンジが良いです。歌はCarlos Joseといって、古いセレナーデ歌い手ですが、ブラジル一の美声ですね。

4. Lua Branca
女流作曲家シッキーニャ・ゴンザーガの百年前の作品ですが、実にモダンですね。歌はべッチ・カルヴァーリョの姉さん、Vaniaです。淡々とした良い味で歌ってます。
セレスタ(セレナーデ)です。

5. メドレー:Tudo Acabado〜Lembrancas〜Nunca
お涙頂戴の悲恋物のサンバ・カンソン3曲メドレーです。歌はリオのWaleskaというお婆さんですが、歌唱力はそんなにないが、ヒジテツ曲を歌わせたら、
この人の右に出る歌手はいないですね。男を泣かせる力(表現力)を持ってますよ。

6. Cafe Nice
ボサノーバ時代の花、ドリス・モンテイロがこの古い曲をショーロ風のノリでソフトに歌っています。

7. Onde estao Tamborins
このサンバぐらいのスロー・テンポを歌いこなすのは難しいです。サン・ベルナルド・ド・カンポ市出身のCeliaが凄いサンバのノリで歌ってます。

8. Malandrinha
日本人にこれを聞かせると、これがサンバですか?と皆首をかしげます。サンバとは、こういうペーソスに溢れたスロー・テンポも少なくないのです。サンバの王様、
マルチーニョ・ダ・ビラが、渋い声と良いノリで歌いこなしています。後半のバックのバイオリン・パート、泣かせます。

9. Adeus Batucada
ハリウッド映画でトップ・スターになったカルメン・ミランダがリオへ里帰りしてショーをした時、新聞で「アメリカナイズされた」と叩かれて、アメリカへ悲しく帰って行きました。
それをリオの丘の黒人作曲家が心を痛めてカルメンのために書いたサンバです。歌はカルメンと同じくラジオ時代のスター、アデミルデ・フォンセッカ。このレコーディングは、
1940〜50年代のビッグ・バンド(フル・オーケストラ)のサンバのバックが良いですね。特に、歌が終わって、エンディングにサックスのナイプが懐かしい。

10. Obrigado
テープが少し余っているので、Waleskaおばさんの悲しいサンバ・カンソンを一節入れておきます。


(B面)

1. 曲名、ど忘れしました。ごめんなさい。
歌はサンパウロの新進Fabiana Cozza。伴奏は、Vila Madalenaのライブ・バー「ボロゴドー」のメンバーです。この歌手は、日本郵船の飛鳥のエンタティナーとして、
僕が選んで乗せました。(2003年)

2. Caminhemos
古いサンバ・カンソン。前出の美声歌手、カルロス・ジョゼです。

3. Ronda
サンパウロを代表するサンバ・カンソン。作曲は、ボヘミアンでサンパウロ大学教授のパウロ・ヴァンゾリーニ先生。歌は、やはりサンパウロのボサノーバ歌手、Marcia。

4. Chorar, Chorei
ボサノーバと言えばリオ、というのが頭にあるのが日本人ですから、サンパウロで歌われた(好まれた)この曲なんか、日本人は誰も知らないでしょう。歌は、有名ではありませんが、
サンパウロの夜のバーで歌っていたクルーナー、Noelitaです。

5. Cabelos Brancos
これも古いサンバですが、モダンなアレンジをしています。特に、ピアノのバックに注意。歌は、これもカルロス・ジョゼ。

6. Ponto Cem Reis
サンバ。昔、リオのビラ・イザベル区で音楽家、詩人、ボヘミアンの溜まり場だったバーの名です。このサンバの雰囲気は、典型的カリオカです。歌手は有名ではありませんし、
歌唱力もそんなにないが、気持ち良いノリでさらりと歌っています。サンバが身に付いているカリオカ女ならでは、ですね。

7. Zimbo Samba
サンパウロの作曲家、アディルソン・ゴドイの曲で、超モダン・サンバです。何故、ここに1曲入れたかというと、歌っているアディルソンの娘、アドリアーナ・ゴドイは、
エリス・レジーナの後継ぎ的実力があるからです。特に、フルートと同じパートをユニゾンで歌っているのは凄い。彼女の母親は、Silvia Maria(A面の2.)なのです。

8. カーニバル・マルシャの昔のヒット集
ブラジル音楽を知るには、古いカーニバル・ヒットを聞くべしです。昔はこんなにロマンチックだったのです。町中市民が溢れて、こんなマルシャを歌い、踊り歩いたものです。
サンバ王、マルチーニョ・ダ・ビラが渋味を出して、飄々と歌っていますが、凄いリズム感です。






幻の特務機関員養成所「日月寮」のこと〜幻のサークル「ボサノヴァ研究会」の思い出



特に男性諸氏は多少興味があるかもしれませんが、陸軍「中野学校」のことはご存知の方も多いと思います。戦争中のスパイ学校として大変有名ですね。映画にもなったことがあります。その中野学校の教官が視察に来ていたというのが、幻の特務機関員養成所「日月寮」(旧・蒙古、現・モンゴルにあった)です。実は、現在80歳になる私の父が、若い頃そこにいました。

現在は、ほとんど資料も残されていません。日本が悲惨な太平洋戦争に突入する前の昭和14年に設立され、「人に全く知られることなく、笑って敵地に死んでゆける戦士を作ること」などが言われていたとのこと。蒙古語、ロシア語、中国語のうち二ヶ国語が現地人と同じように話せることや、乗馬、無電、暗号の組み立て・解読などの厳しい訓練があったそうです。スパイというのは、人格も優れていないと駄目だそうで、父の戦友は弁護士協会の会長も務められた弁護士のA先生など、皆さん、人間的にも素晴らしい方々ばかりです。日月寮は、ソ連軍の侵攻の関係で、昭和17年にその任務を終えています。それから、3年後に日本は終戦を迎えることになります。

時は経ち、それから約50年後のこと。今から10年位前、平和な東京で、私は「ボサノヴァ研究会」というサークルを主宰していました。別に、父のいた幻のスパイ養成学校を真似たつもりはなく、単純に若い方々に自分の知っていることを伝えたり、ブラジル音楽を志す方々の交流の場になれば、という考えでした。かみさんに手伝ってもらって、通信(ボサノヴァ研究会通信)を作って郵送したり、スタジオを借りてセッションをしたり、パンデイロの名手、フランシス・シルヴァさんのパンデイロ講習会を開いたりと、手弁当の楽しい集まりでした。出産や引越し等で、残念ながら、ボサノヴァ研究会は終止符を打ちましたが、その当時、今活躍されている多くの方々が遊びに来てくれていました。

犬塚彩子さん(ヴォーカル&ギター)、山本のり子さん(ヴォーカル&ギター)、佐藤まどかさん(フルート)、石井幸枝さん(フルート)、吉田一夫君(フルート)、中沼浩君(バンドリン)、伊藤ゴロー君(ギター)、布施尚美さん(ヴォーカル&ギター)、岡田和之君(ハーモニカ)等々、多士済々でした。中沼君、岡田君などは、ブラジルに一緒に連れて行きました。現在は、皆さん活躍されていて、本当に嬉しい限りです。歳を取る訳ですね。

因みに、終戦後、戦争体験者の父が筋金入りの反戦平和主義者になったのは、説明するまでもありません。




ボサノヴァのバチーダを発明したのは、実はジョアン・ジルベルトではなかった(!?)
〜 〜〜〜〜歴史の闇に埋もれた天才少年、べべート

私のボサノヴァの師匠と言える方に、ブラジル在住47年の坂尾英矩(ひでのり)さん(ブラジル音楽評論家。元・サンパウロ総領事館文化班)がいます。元々はジャズ・ピアニストでしたが、古くからブラジルに渡り、ボサノヴァを黎明期からリアル・タイムで見て来たという、日本人としては唯一、大変貴重な体験をされた方です。

ブラジル訪問時にボサノヴァの取材をさせていただいたり、貴重な資料を送っていただいたり、また、日本に来られた時は一緒に食事したりと、とても気さくな方ですが、ボサノヴァの知識・体験に関しては、下手なブラジル人も真っ青という、ものすごい方です。ボサノヴァの生き字引と言っても、過言ではありません。ジャヴァンの友人でもある、天才フィロ・マシャドを初めて日本に連れて来たり、私の友人、ヴォーカルのヴィウマ・ジ・オリべイラさんも、サンパウロでは大変お世話になった
そうです。

さて、ジョアン・ジルベルトの一般的な評価としては、「ボサノヴァのリズム(所謂バチーダ)を発明した、偉大なボサノヴァの創始者」というのが通説になっているようですが、坂尾さんはこれに異論を唱えています。

坂尾さんによれば・・・・・
「国内外で数多く出版されたブラジル・ポピュラー音楽に関する書物を読むと、1958年にエリゼッチ・カルドーゾがレコーディングした『シェガ・ジ・サウダージ』の伴奏をしたジョアン・ジルベルトのギターがボサノヴァのリズムをあみ出した、というように受け取られるが、ボサノヴァがあのレコードからいきなり生まれた訳ではない」(現地「BUMBA」誌のコラムより。)

坂尾さんがリオに着いたのは、1956年。今もって忘れられないのが、その頃の若者達が弾くギターのリズムの面白さとコードの美しさだったそうで、彼らの殆どが、ガロート(一般的に言われる「ボサノヴァの誕生」の3年前に死去)が好きと言っていたとのことです。
特筆すべきは、坂尾さんがサンパウロで知り合ったスペイン移民の子で、べべートというまだ10代の少年が、既に典型的なボサノヴァのリズムでギターを弾いていたという事実です。当時はまだ、「シェガ・ジ・サウダージ」のレコードも出ていなかったし、彼はサンパウロで、リオのジョアン・ジルベルトともコンタクトはなかったという訳です。

ジョアン・ジルベルトが本当にバチーダを作り出したのだろうか?ということに関して、バーデン・パウエルは生前、坂尾さんにこう言ったそうです。「この話は正しく伝えられていないんだ。・・・・・彼の運が良かったのは、ジョビンの名曲を歌謡界の大スター、エリゼッチ・カルドーゾが歌ったレコーディングに招かれたことだ」

「ジョアンは当時の首都だった文化の中心地、リオ・デ・ジャネイロの著名音楽家の間をウロチョロしていたのが幸いした。もし、彼が他の地方に住んでいたら、いくら優秀でもトム・ジョビンはレコーディングにジョアンを呼ばなかっただろう。カリオカ文化圏の人は、俗にパネーラ(派閥)と言われるセクショナリズムが非常に強いからである」(同じく、「BUMBA」誌のコラムより。)




ラグビー第5回ワールドカップと母校の話など



今日はスポーツの話題などを。11月22日、オーストラリアで開催中のラグビーの第5回ワールドカップの決勝戦が行われました。

地元ワラビーズ(オーストラリアの愛称)とラグビーの母国、イングランドの決勝戦です。深夜、TV観戦しましたが、素晴らしいゲームでした。
初の優勝を目指すイングランドの執念がやや優っていた感じですが、オーストラリアも素晴らしいラグビーを展開し、同点、また同点の白熱した展開。延長戦の結果、天才キッカー、至宝ウィルキンソンを擁するイングランドが20対17で制しました。

うちのかみさんが昔イギリスに住んでいたこともあり、今回のワールドカップは我が家でも話題になりました。
また、私の母校(山梨県の日川高校。ヒカワと読みます)は、ラグビーの大変盛んな高校で、花園の常連でしたので、余計に興味がありました。ブラジル音楽ファンには、私も含めて、サッカーファンが実に多いのですが、ラグビーも素晴らしいスポーツです。
かみさんに言わせると、イングランドでは、上流階級の子息はラグビー、貧乏階級の子息はサッカーとのこと(笑)。
今まで、ブラジル、アルゼンチン、カリブの国などにも行きましたが、南米はやはりサッカーが大変盛んですね。

ところで、ボサノヴァに関係する話に無理やり(笑)持ち込みますが、日川高校の大先輩に、小野リサさんのお父上、小野敏郎さん(旧制・日川中学)がいます。小野敏郎さんは、古くからブラジルに渡り、サンパウロの有名なライブハウス、クラブ「一番」を経営されていました。当時、ブラジルの一流ミュージシャンが連日出演していたようで、日本からは、渡辺貞夫さんも遠征したようです。

また、1970年10月のバーデン・パウエルの初来日に奮闘され、バーデンのマネージャーもやった方です。かつて、バーデンの面白いエピソードも、たくさん聞かされた覚えがあります。ブラジル音楽の老舗、有名な四谷「サッシペレレ」のオーナーとして、まだまだお元気です。小野さんは、実はパンデイロも上手いんですよ。昔、レコードも出された位です。
たまにお店に遊びに行くと、捕まって(笑)、レイテ沖海戦の話などを、無理やり(笑)聞かされます。戦中派ですからね。何でも、レイテで戦死された守備隊長も同じ中学の先輩とか。

因みに、私の1級下には、作家の林真理子さん(マリリンというニックネームでした)、2級上には、プロレスラーのジャンボ鶴田さん(故人)がいました。また、サッカーのジェフ市原で以前ジェネラル・マネージャーだった、清雲栄純さんも高校の先輩です。清雲さんは、高校時代は、確かラグビー部でした。昔、王様ペレ(サントス)が来日して、全日本と試合をやったことがありますが、ペレをマークしたのが清雲さんでした。




伝説のボサノヴァ・ギタリスト、伊勢昌之さんのこと


皆さんは、伊勢昌之(故人)という天才ギタリストを知っていますか?

何と40年以上前に、既にジョアン・ジルベルトのコードを研究していたのが伊勢さんでした。本質的にはジャズ・ギタリストになるかと思いますが、日本におけるボサノヴァ・ギタリストの草分けと言っていいと思います。亡くなってからもう10年くらいになるでしょうか。30年位前、当時ボサノヴァ・ギターを志すプロ・ギタリストの多くが彼に習いに行ったものです。本当にすごい人でした。伝説のボサノヴァ・ギタリストです。先般、日経新聞に小野リサさんも書かれていましたが、伊勢さんが日本の童謡を録音した貴重なCDが私の家にもあります。

生前、よくご自宅にも遊びにお邪魔しましたし、ライブも聴きに行きました。奥様は日本舞踊の先生で、とても素敵な方です。今でも忘れられないのは、伊勢さんがバーデン・パウエルの「O Astronauta(宇宙飛行士)」という曲をライブで演奏した時のこと。とにかく感動しました。非常に斬新でお洒落な演奏で、アドリブが美し過ぎて絶句したのを、今でも鮮明に覚えています。とにかく、すごかった。作曲者のバーデン・パウエルとは全く違うアプローチでした。日本人でもブラジル人でも、彼のような個性的で創造的な演奏ができるギタリストは、滅多にいないと思います。

気さくな方でしたが、非常に純粋で、演奏はデリケートそのもの。当時来日中のブラジル人歌手、フローラ・プリンが伊勢さんの演奏に感動して、ブラジルに連れて帰ると言い張ったこと、また、弾いている最中に、どうしてもこの音が欲しいと言って、歯で弦を押さえたことなど、エピソードには事欠きません。奇行で有名で、ひょっとするとジョアン・ジルベルト以上だったかもしれません。ブラジルのやり方とは違うチューニングの7弦ギターを演奏したり、まさに天才でした。




我が心の師〜天才ジャズ・ギタリスト、宮之上貴昭さんとの出会い


もうお一人、今度は現役で活躍されている素晴らしいジャズ・ギタリストのことをご紹介しましょう。

日本が世界に誇る天才ジャズ・ギタリスト、宮之上貴昭(よしあき)さんと知り合ったのは、多分もう15年以上前のことです。
当時、国分寺に「アレキサンダー」というジャズのライブを聴かせるお店がありました。連日、日本の一流ジャズメンが出演している、とても雰囲気のいいお店でした。元々ジャズも大好きで、好奇心旺盛な私は、タカミネのエレ・ガットを引っ下げて、宮之上さんのライブを聴きに行ったのです。

結果は・・・・・、「素晴らしい!」の一語でした。と言うよりは「恐ろしい!」という表現の方が当たっていたかもしれません(笑)。いや、とにかく感動しました。つまり、「演奏が恐ろしいほど素晴らしかった」のが一つ、「本物のジャズの楽しさ、素晴らしさを知った」のが一つ、それから、「宮之上さんがとても気さくで庶民的な方だったので、いっぺんで大ファンになってしまった」のが一つです。前の方で、うずうずしながら(笑)座って聴いていたのですが、気軽に声をかけていただき、ステージの上に呼んでいただいて、ボサノヴァの曲(何をやったのか、もう忘れてしまいましたが)を演奏しました。それが宮之上さんとの出会いでした。

家には宮之上さんのレコードがたくさんあります。一番好きなのは「ウエス・モンゴメリーに捧ぐ」という、ライブの2枚組でしょうか。とにかく、ものすごいんですよね、グルーブ感が。ジャズの4ビートとサンバやボサノヴァの2ビートは、本来全く違う世界なのですが、最も大切な「グルーブ」という点では、かなり共通するのではないでしょうか。

私は、宮之上さんから多くのことを学びました。心の師と仰いでいます。

余談ですが、「ショーロ・クラブ」などで大活躍中の名ギタリスト、笹子重治さん(古い友人の一人。ブラジル物を弾かせたら、僕などより全然上の、素晴らしい名手)が、実は宮之上さんのファンだったという事実は、笹子さんから昔直接聞いた話です。





バーデン・パウエルを超えたギタリスト、ミケーレ



バーデン・パウエル(故人)と言えば、ヨーロッパや日本では大変人気のあるギタリスト。数年前にポリドールから再発売された何枚かのCDのライナーも担当させていただきましたが、私自身も、今までに最も影響を受けたギタリストの一人です。

今から、もう26、7年前のこと。当時、赤坂に「コルコヴァード」というお店がありました。(現在、飯島さん、へジーナさんのご夫妻が経営されている高田馬場のお店と同名です。)当時、本格的なブラジル音楽を聴かせるお店はまだ数少なく、東京では四谷の「サッシペレレ」、それに、この「コルコヴァード」くらいのものでした。今はプロデューサーとしても活躍されている名ドラマー、吉田和雄さんが中心となって、ブラジル人歌手などと毎日演奏していて、よく聴きに行ったものです。

ある時、(確か、ポールモーリア楽団の一員だったと思いますが)たまたま来日していた、ミケーレというイタリア人ギタリストが遊びに来ていて、ガット・ギターを弾いて行ったのですが、これがとにかくものすごい!プロ・ギタリストの間で、すぐに大変な評判になりました。

バーデン・パウエルの「Samba Triste(悲しみのサンバ)」や「Samba em preludio(プレリュードのサンバ)」、トム・ジョビンの「イパネマの娘」、その他エドゥ・ロボの曲などを弾いていましたが、もう「素晴らしい!」の一語でした。完全にバーデン・パウエルを超えていました。Keyの選択やアレンジが斬新で、オリジナリティーやアイデアにあふれ、音は柔らかく、リズムは抜群、アドリブはバーデンより数段上!世界にはすごい人がいるものだと思いました。
本国ブラジルにも、ロジーニャ・ジ・ヴァレンサ(故人)、ハファエル・ハベーロ(故人)、エグベルト・ジスモンチなど、バーデンの後継者のような人はいますが、誰もバーデンを超えてはいないのではないでしょうか。後にも先にも、このミケーレだけかもしれません。

しかし、本当に残念ながら、何回かの引越しの際、そのテープを紛失してしまいました。今は遠い過去の記憶の底にあるだけです。
因みに、私がライブでよくやる「Samba em preludio」は、この時のミケーレの演奏を参考にしています。
特に日本人のギター愛好者に、バーデン・パウエルのコピーが好きな人が多いようですが、バーデンをいくらコピーしても、バーデンは超えられませんし、バーデンをリスペクトしていることにはなりません。バーデンのギター芸術にしてもそうですが、「本質とは何か?」を追求することやそういった姿勢が一番大切でしょうね。
いい音楽は、ある種「換骨奪胎」、コピーはあくまでも出発点に過ぎないのです。















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