Charサウンド研究室#843

1.05 ジョニー吉長と大分。(Revised)

Johnny

Introduction

このサイトを始めたころ、ジョニーさんは単なる憧れのアーティスト。遠い遠いステージの向こう側にいる人でした。

ジョニーさんを知ったのは、もちろんピンククラウド。当初はみんな日本人離れしててバタ臭い(清志郎語録:笑)感じだし、全く大分と縁があるなんて思いもしなかった。

だから、誰かにジョニー吉長は小倉出身、と聞いた時でさえ意外でした。「??」って感じだった。

それが1991年1月31日。ピンククラウドのBrain Massageツアー@福岡市民会館。アンコールでCharさんが紹介した。「On Drums、ジョニー吉長 from 大分!」僕にとっては驚きでした。「えっ!?本当だったんだ!」という感じだった。

ピンククラウドのINDEXアルバムに「Let's Go Back Home」という曲があります。I got a ticket from west island―これが九州、大分のことだったとは!?それでもまだ半信半疑。

その後数年経った、1999年。地元の新聞記事でジョニー吉長という名前を見た時には本当にびっくりしました。それもコンサートではなく「講演会」。

会が開かれたのは県北の山間部にある「安心院(あじむ)」という小さな町。講演では「生きる」というテーマでジョニーさんが語り、ドラムの演奏をしたあと、客席の子どもたちをステージに上げてドラムを叩かせたそうです。

なぜジョニーさんが安心院で、講演をするのか?近くに住んでいる友人に聞いてみるとたしかにそういうイベントはあったと言う。ただ、「Why Johnny?」の謎は解けないままでした。

それから1年。ある日、友人Shi-kaくんから電話が。「ジョニーさんのライヴが正式に決まった」!?

Shi-ka君は,当時安心院に近い豊後高田という街で働いており、ジョニーさんの古いお友達と知り合いになったということで、彼からいろんな話を聞かせてもらいました。

ここでジョニーさんは昔豊後高田市に住んでいた、ということが判明します。安心院は現在「お兄さん」が住んでいる街だから、ということで。なるほど。納得。

その年の12月、ジョーさんとのJJ Project名義で「第1回 チャリティー in 安心院 A Peace of Love Music」というイベントが行われました。本当にジョニー吉長がいた!Ichiroさんが弾き語りで歌い、ジョーさんのステージに酔い、Stand by Meは会場に下りてきたジョーさんと一緒に歌った。そして、ジョニーさんが。初めて生で聴いたSpirit Boatに感動した。

終演後、楽屋に押しかけて、ジョニーさんと話して、写真撮ってもらって。それはもう感激の瞬間でした。

  

それからしばらくして、ジョニーさんの帰省に合わせて開かれたパーティー(というか宴会というか)に誘ってもらった。

宴会が終わったあと、「もうちょっと話そうか」みたいな流れで、その夜、朝方までジョニーさんを囲んで長いこと話しました。

僕らはただ、ジョニーさんと話したくて、無邪気で有頂天でした。JLCの話を聞きたかった。97年だったかミュージックバザールでJLCが瞬間的に復活しましたね。あれもジョニーさんが声かけたと言っていた。安心院でもやってくれないかな、なんて。

ギター弾いたり、昔話聞いたり、長ーい長い時間、雑談とも本気ともっていう感じでいろいろな話が行ったり来たりしながら、話は「チャリティ」に移っていった。「音楽をやる意味」とか「チャリティの意味」について、ジョニーさんは僕らに問いかけた。

ジョニーさんがチャリティの向こうに何を見ていたのか、「先生よお、どうよ?」なんて問いかけられて、僕にはうまい答えが見つからなかった。そこにいた誰もがそうだった。

当時の僕は音楽にどんな意味を持たせるかっていうことがよくわからなかった。音楽は音楽。もちろん歌詞やら曲やらに自分の思いを込めるっていうのはわかります。その時の思い以上にあるものって何か。

その頃はジョニーさんのバックグラウンドも知らなかった。プライベートなことをここで書くつもりはありません。ただ、ジョニーさんが亡くなってしまった今、抱えていた思いの一端を考えると、少しは書いておきたいことがある。

  

話が前後しますが、ジョニーさんとそんな風に縁ができて、安心院でもイベントの手伝いをしたり、東京でも何度か会ったりして、そしてまたジョニーさんは大分に来なくなった。

2004年、僕は転勤して別府で働くことになりました。そこで、偶然ジョニーさんがイベントに招待していた子どもたちの養護施設が近くにあることに気づきました。そこで初めて、終戦直後の日本の、その流れに巻き込まれる人の運命を目の当たりにすることになります。

「小倉」と「別府」の意味するもの。その児童養護施設の出来た理由と「お兄さん」の存在。なぜ大分時代がジョニーさんの中で言及されなかったのか。

2005年にVintageというアルバムを出したジョニーさんがジャケットに選んだ写真は、豊後高田時代のもの。それはちょうど僕らがジョニーさんと出会った頃、「昔の友達からもらったんだ」ってとてもうれしそうだったものでした。

ジョニーさんは、「子どもたちのために何かをやりたいんだ」って言っていた。遠い日の自分を、あるいは見ていたのかもしれません。

ジョニーさんと会わなくなった後も、不思議なことに何度も何度も彼の関係者と「偶然」会う機会がありました。それはもう、不思議な縁というしかない感じ。そして2012年、ジョニーさんは亡くなりました。また、遠い人になってしまった。

  

今回、書き直していてふと気づいたんですけど、この時、ジョニーさんは52歳。今の自分と同じ年齢です。あの時ジョニーさんに見えていたものが当時の自分に見えているはずがなかったと、今になって思います。

「音出しゃ終わるんだよ。」あの頃ジョニーさんはよく言っていた。「音楽というものの持つ意味」と問われて、すぐにその言葉を思いついたけれど、今思えば、その言葉の意味が分かっていなかった。「心を込めて」とか、たとえばそういうありきたりのことでさえも、その本質的な意味が分かっていなかった。今でもわかってるかと言われると自信はありません。

今、あの時のジョニーさんと同じ年齢になってみると、あの時の自分とは見え方が違っている。それが年を重ねるということなのかもしれません。

あの夜、ジョニーさんは「先生よ、お前さんは何を伝えるんだい?何を教えるんだい?」そう聞いた。

当時の自分は、まだ引き出しに物を入れようとしてる頃でした。引き出しにそもそも物が入っていない。30にもなって。本当に空っぽだった。入ってるものをどう使うかなんて考えてもいない。まして、それを使うことがどういう意味なのかなんて考えも及ばない。

そんな状態でジョニーさんの望む答えは何だろうと考えていた。わかるはずがない。わかりもしないのに置きに行こうとしてたんですよね。思い返すと恥ずかしい。

今の自分なら、答えられます。ただ、それがジョニーさんの考えていた答えかどうかはわからない。

でもたぶん「音を出せばわかる」という意味はそうなんだろうなと思う。投げられた問いに、自分の答えを出す。セッションとはそういうものだと、あの時ジョニーさんは言ったのかなあと、今になって思う。

その夜、言われたことが、最近になってようやく思い当たる気がします。

ジョニーさんのイベントは、その後「安心院ロックフェスタ」と名称を変え、2002年まで開かれました。実は「お兄さん」による手作りの、と言ってもいいくらいの難しいイベントだったとのちに知りました。そんな中で、いろんな人の苦労やいろんな思いが奇跡を生んだ形になったと思っています。僕は結局、純粋に音楽面だけで2回目、3回目をお手伝いさせてもらいました。Shi-kaくんの電話がなければもちろん僕はジョニーさんと会えていないし、そこから始まった自分の周りのいろんな人たちとのつながりのおかげで、人生は変わったと思います。僕にとっては大きな事件でした。人の縁って本当に不思議だなあと思います。

ジョニーさん、ジョーさん、ムッシュ、マリさん、ミッキーさん、鮫島さん、松浦さん、Ichiroさん、房之助さん…今となっては夢のようなミュージシャンがやってきた数年間でした。