Daniel R. Melamed "Hearing Bach's Passions"

Oxford Univ Pr ; ISBN : 0195169336 ; (2005/03/09) amazon.co.jp

 

『バッハの受難曲を聴く』という新刊が、バッハ学者の Melamed 氏により刊行されたので、早速読んでみた。礒山雅氏による『マタイ受難曲』の名著があり、そこでバッハの受難曲も鳥瞰されていたのだが、本書はまた違う切り口で書かれており、宗教関係用語が多い洋書はなかなかとっつきにくいという心配も必要なく、一気に読んでしまった。

本書は、バッハの受難曲の今日的な受容について、当時の受難曲演奏と具体的な5曲の受難曲を題材に、明快な論旨で展開する。個々の楽曲の構成やアリアやレシタティーヴォなどの分析はほとんどどなく、代わりにもっと大きな視点で「バッハの受難曲を整理」しようと試みており、それに成功していると思う。

最初にバッハの当時と今日の受難曲鑑賞、「18世紀の音楽作品を聴くことは本当にできるのか?」という疑問から話を始め、演奏形態として、今日のほとんどの演奏は、当時より大規模な、現代楽器とソリスト、合唱の組み合わせにより、コンサートホールで演奏されることを指摘する。(後の章で詳細に論考されるが)当時はもちろん教会で受難節の礼拝のなかで演奏され、今日、古楽器と呼ばれる楽器で、かつ少人数で演奏されたこと、合唱、ソロの人の区分はなく、1パート1人での演奏だったことを説明し、最近の古楽器演奏を支持する。しかし、さらに重要なこととして、現代人はもはや、バッハの聴衆(ライプツィヒのプロテスタントの信者)とは異なり、19世紀以降の音楽も、違う宗教観ももってしまっていることから、古楽のアプローチにも限界があり、当時の聴衆のような鑑賞ができると考えるのは幻想だと指摘する。

続いての2章を使い、序章の内容を詳細に検討する。2章ではバッハ受難曲の声楽編成について、「バッハはどんな声楽編成を用いたのか? 今日何の意味があるか?」という疑問について答える。ここでは、最近カンタータなどで適用されることの多くなった、リフキン、パロットの説(=声楽は各パート(譜)1名で演奏していた)を当時の教会の構造、パート譜の構成、バッハの作曲での声楽メンバーへの要求技量の割り付け、などを用いて確認・支持している。3章では、受難曲での声楽家の役割を、「バッハの受難曲は劇的か?」の疑問で始め、パート譜の構成、同時代(テレマンなど)の受難曲での資料などを用いて、当時はソリストと合唱は分かれておらず、ソロを歌うコンチェルティストは合唱部分も歌い、合唱部分は(リピエニストがいる場合は、当時の合奏協奏曲のように)全員での演奏になることを示す。また、この構成により、1人の歌い手は、裁きを受けるイエスにもなり、それを見守る群衆(コラールや合唱)にもなり、受難を受容する心理描写も歌うことになる。この結果いくつもの相矛盾する役割をになうことになり、(アリアにイタリアオペラの影響はあるといっても)オペラのような人物割による劇的な構成は意図していないことを証明する。

続いての2章で、残されたバッハの2つの受難曲(マタイとヨハネ受難曲)と歌詞のみ残るマルコ受難曲、他者の作でバッハが演奏したマルコ受難曲、ルカ受難曲を分析する。

マタイ受難曲については、「マタイ受難曲は本当に2重合唱、2重管弦楽を意図したものか?」との疑問を投げかける。マタイ受難曲の初稿では、通奏低音が1組で合唱12に分割されていない点、2組ある弦楽部分も、有名な「神よ、憐れみたまえ」のヴァイオリンソロは他方からソロ奏者を借りてくるなど、完全な分離がされていない点や、合唱(ソロ)・管弦楽1と合唱(ソロ)・管弦楽2に要求される技量に大きな差があることから、マタイ受難曲の2重合唱は、ヨハネ受難曲にあるソロ+リピエーノの構成が進化し、徐々に2つの独立した構成になったことを示す。そして、その発想の原点になったのは、ヨハネ受難曲のテノールソロと合唱の応答のアリア、バスソロと合唱の組合せのアリアだと推定する。

ヨハネ受難曲については、各種の稿が残されていることに着目し、受難曲の演奏機会ごとの加筆・転用や合唱、アリアやコラールの差し替え(パロディやパスティッチョ)などは、通常の習慣であったことを、当時の他の作曲家についての調査も含め証明している。 この習慣は、次の章でのマルコ受難曲(通常カイザー作曲といわれているが著者は証拠ナシとして否定する)の各種稿における合唱、アリアやコラールの差し替えとバッハの演奏バージョンの比較でも再度検証され、そのバッハへの伝達経路などを推定する。

歌詞のみを残して失われたマルコ受難曲について、「失われた受難曲を18世紀の手法で復元できるか?」との視点で議論し、本受難曲の歌詞の音律構造から、パロディを計画的に利用したものと考えられ、推定される原曲(ザクセン選帝侯の王妃の追悼音楽、「候妃よ、さらに一条の光を」他)からの転用がかなりの精度で証明でき、コラールも他所で残っているバッハの4声コラールから推定できることを示す。しかしながら、ロ短調ミサやクリスマス・オラトリオの例にあるように、バッハは転用(パロディ)にあたって、推敲を進め、楽器編成を変えることも稀ではなかったことから、この曲についても完全な復元はできないこと、受難節の礼拝での演奏では重要な聖書部分(レシタティヴォ)の復元の手がかりがないことから、所詮トルソーでしかありえないことに注意を喚起する。

最後の章では、長くバッハの初期の作と考えられていたルカ受難曲について、他者の作がバッハの作と間違われた経緯と、偽作であることが明らかになったときの扱いの違いの大きさについて警鐘をならしている。また、従来の説と違い、バッハの弟子たちの世代の曲と推定している。

全体に明快な文章と表を用いているため、すっきりした読後感を持った。また、巻末に参考文献、推薦できるCDなどをあげているのも親切である。欲を言えば、表紙以外に全く楽譜が出てこないのは、やはり辛い。当時のパート譜の問題や、ヨハネ・マタイの相似形を論じる際などに、最低限の譜例やファクシミリコピーを掲載していただけたらと思う。

(SH、2005年7月)