マルティン・ゲック 『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ』

(東京書籍、2001年9月刊) 紀伊國屋BookWeb

 

バッハ没後250年に出版された本書(原書の出版は2000年)は、これまでに邦訳されたバッハ評伝の中で、シュバイツァーのそれとともに、最も浩瀚な一書――といっても、原書は1冊だが、邦訳は「生涯」「声楽曲」「器楽曲/様々なる地平」の3分冊としている。

本書は新たなバッハ像を提示しようというよりも、これまでのバッハ研究とバッハ受容を総括し、できるだけ客観的で中立的な要素を21世紀に残すことを目指しているようだ。バッハの生涯や作品を常に同時代および前後の時代の音楽家や音楽作品との比較の中で論じている。これまでのバッハ評伝で必ずといっていいほど強調されてきた事柄やエピソードも、そのような比較によってその意味を問い直される。また、同時代と後生の芸術家・学者・知識人たちによるバッハ評価と受容にもかなりの紙数が割かれ、それらの意味がまた問われる。

したがって、読みこなすには音楽史・文学史などに関する広範な知識と素養が必要だ。残念ながら筆者にはそれだけの力がなく(音楽作品にしても19世紀以降のものはほとんど知らないので)、また作品編では抽象的な表現が多く、何をいっているのかよくわからないことがある。別に翻訳が悪いわけではなく、原書でもおそらく理解できないだろう。できれば、「ここは実はこういうことを言っているのだ」といった細かい注があるとありがたいのだが・・・

とはいえ、さすがにこれだけ分量があると内容豊富で、十分に楽しみながら読める。生涯のそれぞれの時期に、またそれぞれのジャンルや個々の作品において、バッハが要するに何をしようとしたのかということが、徹底的に追求されている。近年の最大の話題である「合唱の人数」の問題については、結論的なことは述べられていないが、ヴォルフ/コープマン編の「バッハ=カンタータ」シリーズ第3巻(東京書籍より邦訳刊行予定)のシュルツェ論文とコープマン論文でこの問題にほとんど触れられていないことに、不満の意が表明されている。

それにしても、現代の日本人はバッハの作品を聴いているようで、じつはそうではないのだと、あらためて思う。つまり、バッハの同時代人が彼の曲を聴いたのと同質の体験は、私たちには不可能に近い。たとえば、バッハのカンタータを教会で初めて聴いた当時の会衆(たいていは初めて聴くのだが)にとって、使われている個々のモティーフやそのフィグーラなどは共有財産であって、それらがまさにここでこのように鳴り響くことの意味は、歌詞との関係でただちにわかったはずだ、と著者はいう。私たちは書物からそういった予備知識を仕入れ、スコアを見ながらあらためてその曲を聴き、「なるほど」と感心することはできる。しかしそれは、何の準備もなしに初めて聴いて「あっ、これは・・・だ」と気がつくのとは、全く違う(もちろん言葉の壁もあるが、問題はそれだけではなく、同様のことは器楽曲にも当てはまる)。そして著者は、だからバッハのカンタータを聴いて会衆の多くは感動したに違いない、といっているようだ。

人名表記について一言。David、Salomon、Samuel はそれぞれダ(ー)フィッまたはダ(ー)ヴィッロモン、ムエルだと思っていたが(博友社の「木村・相良 独和辞典」にもそう書いてある)、本書ではダヴィッロモン、ムエルとなっている。18世紀のドイツ語の発音は現代と違うのだろうか。それから、Smend は従来スメンと表記されてきたが、本書ではスメンとなっている。これらの表記の根拠を教えていただけないだろうか。

(ガンバW,2002年8月)