石井宏 『誰がヴァイオリンを殺したか』

(新潮社、2002年3月刊) bk1

 

殺されたのはヴァイオリンだけでない。音楽が殺されたのだ。

19世紀から20世紀にかけてドイツを中心に音楽美の基準が出来上がり(19世紀のドイツ哲学理論−弁証法的発展の理論−から進歩発展の思想による)、それがまちがっていたにもかかわらず、祭り上げられ、音楽評価の基準とされてしまった。現代の音楽観(日本を含む)が評価する音楽とは、まず、「まじめ」であること、次にソナタ形式を伴う楽曲であること。この音楽観が音楽を殺した。20世紀になり「だれが一番うまいか」といった物差しで音楽を評価するようになった。コンクールが流行り、音楽のスポーツ化が進む。すると当然、コンクール用の演奏というのが育ってくる。それは、すべての音の粒をそろえてミスなく弾き、採点者による減点を受けない演奏をすることで、音楽を技術一辺倒にさせる。本来演奏は演奏者の人格、思考、経歴などのすべての投影である。コンクールにより音楽は殺された。

ヴァイオリンは元来、悪魔の楽器かと思われるほどに官能的な魅力にとんだ楽器であり、人を乗せ、興奮させ、踊らせるほど幻惑的な楽器であったはずだ。その同じヴァイオリンが、現代のクソ厳格主義の時代には、ギコギコギシギシ、ゴリゴリゴシゴシのクソ真面目、四角四面の演奏に徹しているのである。パガニーニのように、人の心をたぶらかし、そしてまた甘美な陶酔で満たすというようなヴァイオリンの弾き手が現れる日が来るのだろうか?

音楽関係で久しぶりに面白く読めた本。私達が受けてきた音楽教育、または私達が持っている音楽に対する考え方を根底から変えることを迫る本。古楽器を演奏する者においては必読の書。もっと早く(子供の頃に)このような考え方に触れたかったし、そのような教授・指導を受けたかった。

では具体的にどうすれば、聴く者を狂わせ・酔わせる演奏が出来るようになるのか? 残念ながら、私のような凡人には、マンゼのように「自然発生的」に演奏が姿を現してこないし、原作曲者になりすます「直感」も「イマジネーション」も無い(少なくとも、育っていない)。音楽研究・模索の旅は続く。

追記:この本のせいでマンゼ演奏のCDが日本中のレコード屋から消えた。特にタルティーニの悪魔のトリルにいたっては皆無で、先日バンクーバでようやく発掘。

(NRI、2002年6月)