チェンバロ とその他の鍵盤楽器

 

チェンバロの名称と発音の仕組み

チェンバロ cembalo はイタリア語で、正式にはクラヴィチェンバロ clavicembalo といいます。これはラテン語で、「クラヴィ」(鍵盤)と「ツィンバルム」(撥弦楽器の名前)をつなげた「クラヴィツィンバルム clavicymbalum」に由来します。英語ではハープシコード harpsichord(竪琴+弦)、フランス語ではクラブサン clavecin です。ドイツ語にもクラヴィーア Klavier という言葉がありますが、これは鍵盤楽器の総称で、チェンバロのみを指すときはイタリア語がそのまま使われていました。

チェンバロは、鍵盤(正確に言うとそれぞれの「キー key」)の先端(奥の方)に垂直に立てた木片(ジャック)にプレクトラムと呼ばれる小さな爪(材質は鳥の羽軸。今日ではプラスチックで代用されることが多い)がはめこまれていて、鍵盤を押すとその爪が金属(ふつうは真鍮)の弦をはじいて音を出します。標準的な一段鍵盤のチェンバロは2組、二段鍵盤のチェンバロは3組の弦を持ち、3組の場合はそのうちの1組が1オクターブ高く調律されます。鍵盤の近くにあるレバーを操作して、同時に鳴らす弦の数と組合せを変えることにより、音量や音色を変えることができます。二段鍵盤の楽器では、曲の途中で鍵盤を移ることによって音量や音色を変えることもできます。

チェンバロは上から見た形がグランド・ピアノに似た翼型のものが一般的ですが、アップライト・ピアノのように響板(弦が張ってある板)の部分を垂直に立てたものもあります。また、一般市民の家庭では、ヴァージナルスピネット(註1)などさまざまな名前で呼ばれた、小型のチェンバロが使われていました。なお、チェンバロやヴァージナルの鍵盤というと、ピアノとは白黒が逆と思われがちですが、ピアノと同じ配色や、半音のキーが縞模様のもの、また木の色そのままのものもあります。

チェンバロは小型のものでも簡単に移動させる(片付ける)ことはできないため、家具調度品の一つと考えられていました。それで、蓋の裏や響板に絵(風景や植物、唐草模様など)が描かれたり、側面や台(脚)に彫刻や象嵌(ぞうがん)などによる豪華な装飾が施されたりしました。

チェンバロの歴史

チェンバロがいつどこで発明されたかは不明ですが、14世紀にはすでに作られていたようです。現存する最古の楽器は南ドイツで1480年頃に製作されたアップライト型のチェンバロで、作者は不詳です。

15世紀末から16世紀にかけて(ルネサンス時代)、チェンバロの主要な製産地はイタリアでした。イタリアのチェンバロは板(側板)が薄手で、本体には蓋がなく、本体と同じ形のケースに収められています。イタリア産のチェンバロはアルプスを越えて北ヨーロッパ各地に広がり、海を越えてイギリスにまで運ばれました。


G. バッフォ作(1574、ヴェネチア)
華麗な装飾を施した蓋付きのケースの中に
本体が収められている(右も同じ)。

H. ペポーリ作(1677、ボローニャ)

17世紀にはフランドル(今日のベルギーの北部で、オランダ語を話す地域。英語ではフランダース)が主要な製産地となり、その中心はリュッカース(またはルッカース)一族です。彼らの楽器は厚手の板(側板)に特徴があります。また、ケースをなくして本体に直接蓋をつけ、内部構造を変え、装飾は彫刻や象嵌に替えて塗装や木版刷りの紙を貼り付けるなどの工夫により、製作の効率を上げることができました。澄んだ音色と深みのある響きをもつリュッカース・チェンバロの名声は全ヨーロッパにとどろき、音楽好きの貴族や市民が競って買い求めました。当サイトのギャラリーでも、フェルメールをはじめヤン・ブリューゲル、メツー、モレナール、ステーンといった17世紀オランダの画家たちによる絵の中にリュッカース・チェンバロを見ることができます。


A.J. リュッカース作(1646)

リュッカース作のヴァージナル(17世紀)

フランドルのリュッカース一族も17世紀の末には衰え、それに代わってチェンバロ製作の中心となったのはパリです。ブランシェタスカンエムシュらパリの製作家たちは、新しいタイプのチェンバロを作るとともに、リュッカースの一段鍵盤の楽器を需要の多い二段鍵盤にしたり、音域を拡大したりと、さまざまに改造(ラヴァルマン)しました。それにより、リュッカースの持つ力強さ、鮮明さは後退して、華やかな響きをもつ表情豊かな楽器へと生まれ変わりました。


リュッカース作(17世紀)、タスカン改造(18世紀)

J.-H. エムシュ作(1761、パリ)
このように装飾が簡素なものも多い。
響板には花が描かれている。

ドイツではイタリアの影響を受けつつ、後にはフランスの製法も取り入れて、独自のスタイルによる楽器が作られていました。製作家ではミートケツェルが有名です。

ウィーン古典派のハイドンやモーツァルトの作品がチェンバロで演奏される機会はほとんどないため、バロック時代(1750年頃まで)とともにチェンバロの時代も終わったかのように思われがちですが、ハイドンもモーツァルトも初期の頃(1770年代まで)はチェンバロを使っていましたし、ベートーヴェンはまだボンにいた1790年頃までチェンバロを弾いていました。

ピアノとクラヴィコード

チェンバロは音量や音色を段階的に切り替えることができますが、その中間のニュアンスをタッチの強弱などにより表現することはほとんどできません。そこで、1700年頃にイタリアのクリストフォリは、チェンバロのジャックとプレクトラムをハンマーに替えて、弦を叩いて音を出す楽器、すなわちピアノを考案しました(註2)

ピアノは長い試行錯誤の期間を経て、18世紀半ば頃から実際の演奏に使われるようになりました。初期のピアノはフレーム(弦を張る枠)が木製で、弦は細くて張力は弱く、ハンマーも小さいため、現代のピアノに比べると弱々しい音でした。しかし、音の強弱を自由にコントロールしたいという、新しい時代の要求に応えることができたピアノは、改良に改良を重ねて、18世紀末にはついにチェンバロに代わって鍵盤楽器の王座についたのです(註3)。その後もピアノは、金属フレームの採用による音域の拡大と音量の増大、キーの動きをハンマーに伝える機構の改良など、幾多の技術革新を経て、19世紀半ば頃にほぼ今日の形になりました。

チェンバロとピアノの中間のような特徴を持つのが、キーの先の金属片(タンジェント)で弦を突いて音を出すクラヴィコードです。チェンバロと同じくらい歴史の古いこの楽器は、音量がきわめて小さいため(数メートル離れるとほとんど聞こえない)、合奏には向かず、そもそも他人に聴かせるために弾く楽器ではありませんが、タッチによって音の強弱を表現でき、またビブラートもかけられることから、豊かな感情表現が可能だったので、学習用に、また独りで音楽を楽しむのに適していました。クラヴィコードは、後期バロックから古典派時代、とくにドイツで愛好されました。

通奏低音について

バロック時代の音楽において、チェンバロなどの鍵盤楽器にとっての重要な役目は、通奏低音です。「通奏低音」はイタリア語のバッソ・コンティヌオ basso continuo の訳で、音符の上(または下)にところどころ和音を示す数字や記号がついているので数字付き低音ともいわれます。ポピュラー音楽のコードネームと原理は似ています。


通奏低音パートの譜例 (バッハ/「音楽の捧げ物」〜トリオ・ソナタ)

通奏低音声部に書かれた音符は鍵盤楽器(チェンバロまたはオルガン)奏者が左手で弾き、低音旋律楽器(チェロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴィオローネ、コントラバス、ファゴットなど)がこれに重なって補強します。そして鍵盤楽器奏者は右手で、即興的に和音や装飾的楽句を弾きます。同じ和音でも音の数や高さなどは奏者の自由に任されます。また、チェンバロによる通奏低音演奏で特徴的なのは、和音をばらして弾くアルペッジョ(分散和音)奏法です。アルペッジョを素早く弾くかゆっくり弾くか、どのようなタイミングで弾くかなども自由ですが、ある程度は曲想やその他のさまざまな条件に合わせる必要があり、そのバランスで奏者の音楽的センスが問われることになります。

バロック音楽の時代は「通奏低音の時代」ともいわれます。16世紀までの(ルネサンス)音楽は声楽も器楽も、基本的にすべての声部が対等で、和声進行の範囲内で同時にどの声部も独立して旋律を奏しましたが、バロック音楽への移行とともに高音声部と低音声部の対比・拮抗ということに興味の中心が移りました。手薄になった中音域声部を補いつつ和声進行を明確にする必要から、通奏低音が発明されたと考えられています。


古い鍵盤楽器の歴史と音楽については、渡邊順生氏『チェンバロ・フォルテピアノ』に詳しく書かれています。本ページの写真は L'Iconographie de l'Orgue et du Clavecin から拝借しました。



1
ヴァージナルとスピネット(フランス語ではエピネット)の区別は曖昧でわかりにくく、そのため少なからず誤解と混乱があります。渡邊順生氏によれば、本体を上から見た形が、ヴァージナルは長方形または五角形や六角形、スピネットはチェンバロを斜めにつぶした翼形または三角形。両者は弦を張る方向が違います。ただし、イタリアやドイツでは小型のチェンバロをすべてスピネットと呼ぶ習慣があり、イギリスではふつうのチェンバロまでヴァージナルと呼んでいました。【本文に戻る】
2
ピアノの正式名称は「ピアノフォルテ」で、発明当時の命名「ピアノとフォルテを備えたチェンバロ」に由来します。ただし、18世紀の末まではピアノも単に「チェンバロ」と呼ばれることが多かったようです。今日では、とくに初期のピアノ(つまり古楽器)であることを示すのに、「フォルテピアノ」「ピアノフォルテ」の語が使われます。ピアノはチェンバロ(翼型)の本体を、形もそのままに採用しましたが(外から見るとチェンバロと区別がつかない)、庶民の家庭には小型で長方形のスクウェア・ピアノが普及しました。なお、ベートーヴェンのソナタで知られる「ハンマークラヴィーア」という言葉は、1800年前後からドイツ語圏で使われるようになった呼称です。「ハンマーフリューゲル」という言葉がグランド型(フリューゲル=翼)のピアノを指すのに対し、それも含めたさまざまな形のピアノの総称です。【本文に戻る】
3
バッハとピアノの結びつきには興味深いものがあります。イタリアの製作技術を取り入れてドイツで最初にピアノを作った楽器製作家たちの中に、オルガンで有名なジルバーマンがいました。彼は1730年代に試作品の試奏をバッハに依頼しました。バッハは高音域が貧弱なこととタッチが重いことを指摘し、ジルバーマンは改良した楽器を再びバッハに弾いてもらい、今度はお墨付きを得たので、製造・販売に自信を得たと伝えられています。1733年6月のライプツィヒの新聞は、バッハが主催するコンサートにおいて「当地ではまだ誰も聴いたことのない新しいチェンバロが披露される」と予告していますが、今日ではこれがジルバーマン・ピアノではないかといわれています。プロイセンのフリードリヒ大王はこの改良型ジルバーマン・ピアノを気に入り、何台も所有していましたが、バッハは1747年にポツダムを訪れた際、大王の御前でそれらを弾きました。バッハはさらに晩年(1749)には(おそらくジルバーマンの)ピアノの販売代行業務まで手掛けていたようです。しかし、現存するバッハの作品の中にこの新しい楽器に霊感を得て書かれたと思われる曲は知られていません。【本文に戻る】

 


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