バロックの午後―カンタータと室内楽

カメラータ・ムジカーレ第49回演奏会 プログラム・ノート

(2009.11.3 横浜市開港記念会館、2009.11.8 聖パウロ女子修道会)

 

バロック時代の教会カンタータと室内楽

本日のプログラムは18世紀、後期バロックから古典派初期の時代の教会カンタータと室内楽曲です。

キリスト教では1年間のすべての日曜日と祝祭日にそれぞれ特定の意味や目的が与えられていて、礼拝では決められた聖書の一節が朗読され、それに即した説教が行われます。バッハ(ヨハン・ゼバスティアン、1685〜1750)の時代のドイツ地方では、説教に併せて、その内容をわかりやすくかみ砕いて情緒に訴えるように表現した音楽が演奏されました。当時は決まった呼び名がなかったこの礼拝用音楽を、今日では「教会カンタータ」と呼んでいます。「カンタータ」はもともと世俗的な内容をもつイタリア語の独唱曲のことで、その形式に近い教会音楽なので教会カンタータというのです。

教会カンタータはふつう礼拝用音楽の責任者によって、1年分約60曲のセット(年巻)として作曲されました。1年分あればいちおう用が足りるわけですが、バッハをはじめ当時の教会音楽家の多くは数年分の教会カンタータ年巻を残しています。きっと毎年同じ日に同じ曲ばかりでは飽きられてしまうからでしょう。

一方、宮廷や貴族の館の室内ではお抱えの音楽家たちによって、またしばしば領主自身やその家族も加わって、協奏曲、トリオ(三重奏曲)などの合奏曲が盛んに演奏されました。当時はこういった室内楽などの世俗音楽もやはり単なる娯楽ではなく、さまざまな意味で政治の道具でもあり、多くは特定の機会に特定の目的で演奏するために作曲されました。しかし室内楽は礼拝用音楽とは違って、同じ曲を別の機会や目的のために再度演奏することはまれで、いわば使い捨て同然でした。失われた曲も多かったことでしょう。有名なバッハの「ブランデンブルク協奏曲集」にしても、バッハがブランデンブルクの領主に就職斡旋を依頼するため、それまでに作った曲の中から適当なものを集めて筆写し、献呈するということがなかったら、今日に伝えられなかったかもしれません。

イギリスやドイツの都市で、しだいに経済力をつけた市民も家庭や社交生活の中で室内楽を楽しむようになると、アマチュア向けの室内楽曲が出版されることも多くなりました。しかしこの場合も、一般市民を楽しませることが目的なので、作曲者には自らの「作品」として世に問い、後世に残そうという意識はまだ希薄でした。

J.C. バッハ: 五重奏曲ニ長調

J.C.(ヨハン・クリスティアン)バッハ(1735〜1782)は大バッハ(ヨハン・ゼバスティアン)の末息子です。父が没したときまだ14歳だった彼は、19歳でイタリアに留学した後、27歳でイギリスに渡ると、王室専属の音楽教師となり、またオペラ作曲家として活躍し、「ロンドンのバッハ」と呼ばれました。大陸に先駆けて産業革命を成し遂げた18世紀後半の英国の首都ロンドンは、経済的繁栄を背景に、当時のヨーロッパでは最も盛んに商業的な公開演奏会が行われていました。その中でもJ.C.バッハが友人のアーベルと共同企画した予約制の定期演奏会は「バッハ・アーベル・コンサート」として有名になり、彼の死まで18年間も続けられました。レパートリーの中心は彼らの自作品でしたが、ハイドンの交響曲もいくつか演奏されています。

J.C.バッハの作風はモーツァルトに大きな影響を与えたといわれ、この五重奏曲もバロック様式からモーツァルトへとつながる「前古典派」のギャラント(優雅な)様式で書かれています。また、チェンバロは通奏低音ではなく、右手が独立した旋律(オブリガート)を奏で、アンサンブルを主導します。この点でも古典派のピアノ三重奏曲、ピアノ五重奏曲などの先駆けといえます。

テレマン: 「食卓の音楽」より トリオ ホ短調

曲集のタイトルの「食卓の音楽」とは宴会用のBGMのことで、当時はこのようなタイトルの曲集がいくつか出版されました。繁栄を誇っていた帝国自由都市ハンブルク市の音楽監督ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)の作品はその中でも最も有名で、彼の代表作でもあります。第1集〜第3集から成り、通奏低音付きの独奏曲から協奏曲、管弦楽組曲まで、さまざまな編成の作品を収めています。

テレマンはアマチュア向けの室内楽曲集も多数出版していますが、「食卓の音楽」はプロの音楽家に向けて宣伝し、予約購入者名簿には「ロンドンの音楽博士、ヘンデル氏」の名前もみられます。そして彼自身、友人への手紙に「この作品はいつの日か私の名声を高めてくれるでしょう」と書いています。バッハをはるかにしのぐ人気作曲家で、出版時にはすでに全ヨーロッパにその名声がとどろいていたテレマンが「いつの日か」というのですから、もしかしたら彼はこの作品によって後世にまで名が残ることを期待していたのかもしれません。しかし、バッハの作品が息子たちや弟子たちを通じてモーツァルト、ベートーヴェン、さらにロマン派の作曲家たちにもよく知られていたのに比べて、あまりにも時代の好みにマッチしていたテレマンの作品は彼の死後、急速に忘れられ、復活したのは20世紀の半ばでした。

テレマン: リコーダーとファゴットのための協奏曲ヘ長調

テレマンは自伝の中で、管弦楽組曲やトリオ・ソナタを得意としたのに比べ「協奏曲は真に自分の心から生まれたものではない」と否定的に書いています。たしかに4000を超えるといわれるテレマンの作品中で協奏曲は100曲足らずですから、多いとはいえません。しかしその協奏曲の分野において、彼の面目躍如といえるのが、さまざまな楽器を組み合わせて独奏楽器群とする多重協奏曲で、この曲のように他に類のない珍しい組合せの曲が多く残されています。牧歌的雰囲気が漂う曲で、リコーダーとファゴットの音域の対比、音色の違いが巧みに活かされています。

ヴィヴァルディ: 「調和の霊感」第3番ト長調

15世紀に建てられたヴェネチアのピエタ修道院は、爛熟した貴族社会の落とし子ともいうべき孤児や捨て子を引き取る養育院としても有名で、回転扉式の「赤ちゃんポスト」がありました(この伝統は現在も続いている)。またここから付属音楽学校に通う少女たちによるコンサートは観光都市ヴェネチアの呼び物の一つで、噂を聞いた王侯貴族を含む多くの人々がヨーロッパ各地から訪れました。「赤毛の司祭」と呼ばれたアントニオ・ヴィヴァルディ(1678〜1741)は1704年にこの音楽学校の教師になると、少女たちに斬新なヴァイオリン技法を教え込みました。そして彼女たちが見事に演奏するヴィヴァルディの音楽もまた、ヨーロッパ中にあまねく知られるようになり、有名な「四季」を含むいくつかの作品集が出版されました。中でも1711年にアムステルダムで出版された「調和の霊感」はヴィヴァルディの全作品の頂点に立つ傑作です。バッハが若い頃に勤めていたワイマール宮廷のヨハン・エルンスト公子は、アムステルダム留学中にこれらの作品が演奏されるのを聴いて感銘を受け、早速楽譜を買い求め、ワイマールに持ち帰りました。公子の命令でバッハはこの第3番を含む5曲をチェンバロやオルガンの独奏用に編曲しました。この経験はバッハ自身にも絶大な影響を与えましたが、ヴィヴァルディの作品の方は作曲者の死後、急速に忘れられました。

曲集は全12曲から成り、独奏楽器は1つから4つのヴァイオリンで,チェロが独奏に加わる曲もあります。第3番は最もシンプルな形で、独奏はヴァイオリン1つです。

バッハ: カンタータ「わが心は血の海にただよう」

心が血の海にただよう(直訳すると、血の中をただよう)――なにやら異様なタイトルですが(当時の礼拝用音楽にはタイトルがなかったので、今日では歌詞の冒頭の言葉をそのまま曲全体のタイトルとしている)、当時の声楽曲の歌詞には修辞学的な意匠が凝らされていて、この語句は罪(原罪)を自覚した人間の深い苦悩を表しています。

このカンタータは三位一体節後第11日曜日(8月初め〜9月上旬の範囲で年により移動する)のために作曲され、ワイマールの宮廷礼拝堂で初演されました。現存するバッハの教会カンタータ約200曲のうち、10曲ほどしかない独唱カンタータの一つです。歌詞は、罪の自覚ゆえの深い嘆きから、罪の贖(あがな)いとしてのキリストの死に思い至り、神の憐れみを信じて信仰に生きようとの決意を経て、救済の喜びと希望へと導かれます。6曲目の「コラール」とは、マルチン・ルターが創始した、ドイツ・プロテスタント教会の賛美歌です。

 

カンタータ「わが心は血の海にただよう」BWV199 (歌詞和訳)

1. レチタティーヴォ

わが心は血の海にただよう。
罪の子が私の中で孵化し、
神の聖なる眼に
私は怪物のように映っているから。
そしてわが良心は痛みを覚える。
わが身にとって罪は
地獄の刑吏のようなものだから。
忌まわしい悪徳の闇よ。
お前が、お前こそが私を
このような苦悩に陥れたのだ。
邪悪な、アダムの末裔であるお前こそが
わが魂からあらゆる平安を奪い、
天国の扉を閉ざすのだ。
ああ、途方もない苦悩よ。
いかなる慰めもわが乾いた心を
潤してはくれない。
そして私は身を隠さずにいられない、
天使でさえそのお方の前では
顔を覆うのだから。

2. アリア

沈黙のうめきよ、静かなる嘆きよ、
わが苦悩を伝えておくれ、
私の口は閉ざされているのだから。
そしてあふれる涙の泉よ、
お前はたしかな証人になっておくれ、
罪に汚れた心がどんなに悔いているかの。
私の心は今や涙の泉、目は熱い涙の源。
ああ神よ、だれがあなたを
満足させられるだろうか。

3. レチタティーヴォ

しかし神は私を憐れみたまう。
私は頭に灰をかぶり、顔を涙でぬらし、
心は悔恨と悲嘆に打ちひしがれ、
悲哀の中から叫ぶのだから、
神よ、罪人なる私を憐れみたまえ、と。
ああ、そのとおり、神の心は開かれ、
わが魂はこう告白する。

4. アリア

深くうなだれ、悔恨に満ちて、
愛する神よ、私は御(み)前にひれ伏します。
わが罪を告白します。
どうかご慈悲を、
わが罪をお赦(ゆる)しください。

5. レチタティーヴォ

この苦悩に満ちた悔恨のただ中で、
慰めの言葉がわが心に降り来たった。

6. コラール

あなたの嘆き悲しむ子である私は、
その罪をすべて投げ入れます、
わが身に突き刺さり
私をかくも震えあがらせるものすべてを、
あなたの深い御(み)傷の中に。
そこにこそ私の救いがあるのです。

7. レチタティーヴォ

この御傷の中に私は横たわる、
まことの岩塊の中にいるがごとく。
ここをわが憩いの場としよう。
その中で信仰に生き、
心満たされてよろこび歌おう。

8. アリア

わが心はどれほどよろこんでいることか、
神に赦されて。
御(み)心はわが悔恨と苦悩を心にかけ、
救いの道を開きたまいた。