ザックの歴史 : Zak's Bio

ック・スターキーは,1965年9月13日AM8:00,ロンドンのクイーン・シャーロット産院で,モーリーン(旧姓コックス)とリチャード・スターキーの長男として生まれた。父親がザックという名を選んだのは,「力強そうな名前で,これ以上縮められないものを考えてたんだ。当時,頭から離れなかったイカれたやんちゃな名前なんだよ」という理由からだった。(注:リンゴはリチャードの愛称“ディック”(ペニスの意味もある)で呼ばれるのを嫌がっていた)
父親は「ザックはドラマーにはさせない」と言っていたが,ザックの音楽への興味は早くから現われてきた。

「ザックはよく『Back In The USSR』をかけて,飛行機のマネをして部屋中を駆け回っていたよ」

「ザックはショウバンドが好きでね,特にアリス・クーパーやボウイ,あとスウィートも好きだった。まぁ8歳の頃の話だけど。レコードも全部持ってるよ。僕はザックが聴きたいと思った音楽は何でも与えるつもりだ。カンカンだってね。そうすることは大切なことだって思うんだよ。まだ6歳のジェイソンもはまっているけど,それはザックの影響だね。でも,今8歳のザックは,6歳の時から本当に音楽に興味をもっていたんだ。彼は好きな音楽と嫌いな音楽を自分の中でしっかりと分かっているよ」

「ザックはアリス・クーパーのようなバンドを学校で組みたいと思っていたんだ。でも1つだけ問題があって,みんながみんなアリス役をやりたがっていたのさ。2週間ほど,ザックとジェイは目を大きく黒っぽく化粧して家で遊んでたよ。そりゃすごかった。僕にはできない」

「今ザックは学校で録音を習っているところだよ。家にピアノがあるから,それをじゃんじゃん鳴らして,僕はザックにコードを教えたりしているんだ。おそらくザックはミュージシャンになるんじゃないかな」

−Ringo from Rolling Stone 17 Jan 1974

 

ックは一時期きちんとピアノのレッスンを受けていたようだ。しかしドラムに関しては,「記憶がある頃にはすでにドラムを叩いていた」とのこと。 彼は,たった1度だけ父親からドラムのレッスンを受けている。「10歳の時,父さんが1度だけレッスンをしてくれたんだ。で,僕に言ったんだ「もしドラムを習いたなら,自分で自分自身に教えることだ」って。だから僕はそうした」と,ザックは言っている。
彼は固い意志で周囲を驚かせた。毎日学校から帰ってきては,ヘッドフォンで音楽を聴きながら練習をして,母親を困らせた。

ザックに大きな影響を与えたバンドの中にはもちろんThe Whoがある。8歳の頃,両親のレコードコレクションから「Meaty Beaty Big And Bouncy」を見つけ,持ち出した。彼はそのバンドのドラマーが誰なのか,すでに知っていた。“伝説”では,ザックの最初のドラムキットはキース・ムーンからプレゼントされたことになっている。
(注:正確には最初のドラムはリンゴからだが,大人用のフルキットの1台目はキースがプレゼントした)

「70年代初めには,家でしょっちゅうパーティーがあったんだ」とザックは回想する。「僕ら子どもには目もくれない大人がたくさんいたけど,キースおじさんは,いつだって僕らに付き合ってくれてたよ。おしゃべりしたり,絵を描いたりしてして。クリスマスの朝11時にサンタの格好をして,馬車でプレゼントを持ってきてくれたこともあるんだよ」

−Zak, Daily Telegraph, 24 May 1997

ピート・タウンゼントによると,「キースは常にザックにとって音楽の父だった。彼はザックに最初のドラムキットををやってね。でもあれは違ってね,実際はリンゴが最初のキットをやったんだけど,キースは“ザックが本当に欲しかった”最初のドラムキットをやったってことなんだ。あのドラムにはヌードの女性がプリントされてたな」

−Oct 1996 Ira Robbins interview

 

ックが父親から言われた“自分自身に教えろ”という練習方法に従い,彼はヘッドフォンでレコードを聴いて練習を続けた。10歳か11歳になると「Quadrophenia」や「Who's Next」「Live At Leeds」といったレコードでドラムを叩き,12歳にしてバンドでドラムを叩きパブでギグをした。

キースは言っている,「先日,リンゴの家に行って,奴のティーンエイジャーの息子ザックに新しいドラムセットを誕生日プレゼントとしてやったんだ。ちょうどザックは「My Generation」を叩いててね。リンゴはオレに怒ってたよ。奴は息子をドラマーにはしたくないからな」

−Circus, Oct 3 1978 (interview conducted Aug 7

両親は1974年頃に別居し,結局1975年に離婚。ザックは「好きな時にウェストエンドのキースおじさんの家に来ていいよ」と言われていた。「僕の思春期には,いつもムーニーが一緒にいてくれた。親父はいつもモンテカルロかどっかにいたからね」。しかし…悲しいことに,キースは1978年9月7日,返らない人となる。

 

The Nextというのがザックの最初のバンドで,彼はその中で一番年下のメンバーだった。バンドは(父親の私有地内にある)Startling Studios使い,予約しては空いている建物で練習をした。

16歳の時,ザックは父親に学校をやめることと,ミュージシャンの道を進みたいことを伝えた。そして父親の私有地内にあるコテージに引っ越した。彼の行動で問題だったのは,12歳の頃から持っている“酒を飲むことはロックの一部”だとい考えだった。毎朝学校に行くふりをして家を出ては,年上の友達に会ってジャムり,酔っ払っていた。彼は母親が学校に呼び出されるまで,バレずにやっていた。ちょっとの間,家庭教師をつけれたが,それも長続きしていない。しまいには,1つのOレベル(イギリスの進学用テスト)もパスすることができなかった。こんな悪習により,ザックはほぼ勘当状態であった。

バンドのThe NextはMonopacificとなり,キースの元マネージャーのピーター・バトラーがマネージャーとなった。「ザックは最も忠実にキースのスタイルを再現しているが,加えて自分のスタイルも持っているよ。力強いソロを聴いた誰もが“なんてこった,彼だよ”と言うだろう」と,ピート・タウンゼントは言っている(1982)。

親と長い付き合いをしていたのは,ハードロックカフェの設立者の1人,アイザック・ティグレットだった(2人は1989年に結婚)。その関係もあって,スターキー家の子ども達は,ザックをはじめ,次男のジェイソン,長女のリーともに全員がロンドンのハードロックカフェで働いたことがある。

1981年4月27日,リンゴ・スターはロンドンのメリルボーン登録所でバーバラ・バックと籍を入れ,ザックに継母ができた。

て,ザックのプロとしての初めての仕事は,17歳の時にスペンサー・デイヴィス・グループとやったスタジオギグである。

「その時,僕は16歳だった。スタジオが家のすぐ近くにあって,そこでちょっとだけ仕事をしていたんだ。オーナーとはパブでジャムってからの知り合いになって,それからはたくさんのセッションをそこでするようになったんだよ。その多くは無名なものだけど,そこで再結成中のスペンサー・デイヴィス・グループとも仕事をしたのさ。1日に50ポンドもらってね,稼いだって感じがしたよ」

−Zak, Modern Drummer July 1997

のバンドはThe Whoのベーシスト ジョン・エントウィッスルがプロデュースしていた。ちょうどその頃,エントウィッスルは父親のアルバム「Old Wave」の手伝いをしていて,その暇をぬっては,ザックの面倒を見ていた。そのバンド名はNightfly。リンゴ曰く,「ヘビーでハードだけど,“ヘビーメタル”とは言ってはいけない」そうだ(NME 12 Dec 1984) 。バンドには元バッドカンパニーとホワイトスネークのメンバーがいた。

実は,これがエントウィッスルと一緒に仕事をする初めての機会ではなかった。

「僕が16か17歳の頃,北部ロンドンのDingwallっていうところでギグをした時に,ジョンが見に来てくれたんだ。そして,一緒に仕事をやらないかって誘ってくれたんだけど,僕はその時,当時のバンドに忙しくって申し出を断ってしまったんだよ。そのバンドとのしがらみとかなんとかでね。ベーシストとは子どもの頃からの付き合いだし,他の連中とも14歳の頃から3年も一緒にやってたんだ。そう簡単には投げ出せなかったんだよ。でもラッキーなことに,19歳の時に,ジョンがもう一度声をかけてくれたんだ」

 

1985年1月22日,ザックは両親に内緒で,サラ・メニキデスと戸籍登録所にて入籍をした。事後報告された父親は,24日にティッテンハースト・パークで,2人の門出を祝うパーティーを開いてやった。

ザックの名前がアーチストとして初めてクレジットされた作品は,1985年6月24日にリリースされた,エディー・ハーディンとの仕事「Eddie Hardin & Zak Starkey's Musical Version of Wind in The Willows(邦題「たのしい川ベ〜ヒキガエルの冒険」)」である。1986年にロンドンで上演されるとの話があったが,行なわれることはなかった(しかし,この作品はコンサートとして1991年にドイツで演奏された)。

1985年9月7日(奇しくもキース・ムーンの命日!),ザックとサラの間に長女タニア・ジェイン・スターキー誕生。そのことによって,父親のリンゴは,ビートルズの中で一番におじいちゃんとなった。

1985年と1986年に,ザックはいくつかのチャリティーものに参加をした。ブラッドフォード災害基金のためのThe Crowdヴァージョンの「You'll Never Walk Alone」や,アパルトヘイト反対の「The Sun City」,そしてヘロイン反対プロジェクトである「It's A Live-In World」である。この頃,セッションマンとしてのザックの仕事が急激に増えてきた。また,暇があれば,Icicle Worksのドラマーの穴埋めもしていた(1988)。
1989年には,アイアン・メイデンのエイドリアン・スミスのソロプロジェクトのバンド,A.S.a.Pに参加。そして1991年にはとうとう自身のバンドICEを結成し,小さなツアーにものりだしたのである。ICEのCDは日本で発売され,彼はドラムだけでなく,大半の曲でギターも担当した。

 

親の“オールスターバンド”の第1期ツアーが,1989年に始まった。ザックはフル参加はしなかったものの,ラス・ヴェガスのGreek Theatreを含むいつくかの公演でドラムを叩いた。彼がオールスターバンドの正式メンバーとして参加したのは,1992年の第2期と1995年の第3期。第3期では仲良しのジョン・エントウィッスルとリズム隊を組んだ。

ックが“The Whoの仕事”として初めて声をかけられたのは,1994年,ロジャーの企画"Daltrey Sings Townshend"ツアーへの参加である。彼は“夢のバンド”への参加に多いに意気込んだ。メンバーにはジョン・エントウィッスル,サイモン・タウンゼント,ジョン“ラビット”バンドリック,ビリー・ニコルズなどもおり,地元オーケストラのサポートもあった(告知ポスターには大きく「Daltrey,Townshend,Entwistle,Starkey」と書かれている(苗字の10分の1ぐらいの大きさで小さく名前も併記))。ツアーはアメリカ・カナダをはじめ,ブラジル,チリ,オーストラリア,ドイツ,スイス,フランスをまわる予定を立てていた。

この頃,ザックはサイモン・タウンゼントと組んでAnimal Soupという彼らのハンドでライブをしている。曲もレコーディングされたがリリースせず,後に再録してThe Simon Townshend Bandのアルバム「Among Us」で発表された。このバンドではドラムはサイモンの息子ベンがやっていて,ザックはメンバーにはなっていない。しかし「Ecstasy Heaven」と「When She Sleeps」で少しだけギターを弾いている。

1994年9月下旬,母親のモーリーンが白血病のためシアトルのフレッド・ハチェンソン癌研究センターにて骨髄移植を受けた。ザックは骨髄提供のドナーとなったが,残念なことに,63日後,白血病と戦った母親は,併発した感染症により1994年12月30日,家族に見取られ他界した。

1995年,ロジャーの企画は極東オーストラリアをまわる予定だったが,実行されず,フリーになったザックとジョン・エントウィッスルはリンゴのオールスターバンド第3期のツアーに参加することになる。このツアーは当初の予定より短くされ8月24日で終わり,最後の4つの公演がキャンセルされた。理由はザックの妹リーがロンドンで倒れ,検査の結果,脳腫瘍と診断されたからである。彼女は9月にボストンに渡り,16日に放射線治療を受けた(治療は成功している)。

1995年12月,ザックはFaceというバンドでもドラムを叩いていた。
結婚から10年が経ち,父親のような野心は持っていないものの,ドラムに情熱を捧げる日々。

1996年,レーベルの問題でリリースされなかったジョン・エントウィッスルとの「The Rock」が,日の目を浴びてやっとCD化になった。80年中頃にレコーディングされ,ザックはオリジナルメンバーであったが,実際ツアーメンバーとして参加することはなかった。

1996年4月,Faceとの短い活動期間を終えたザックは,ピート・タウンゼント,ジョン・エントウィッスル,ロジャー・ダルトリーから,“Quadrophenia”への参加要請を受ける。この企画は“The Who”ではなく,公式には“TED”と表記されていたが,ザックが憧れのバンドThe Whoの一員になったのは紛れもない事実である。ライブはプリンストラストの一部として,1996年6月29日ロンドンのハイドパークで行なわれた。翌朝の月曜のニュースで,ザックは往年のロック・バンドに入った栄光なる29歳のドラマーとして取り上げられた。

TEDは今やThe Whoとして活動を再開し,97年春にはヨーロッパ,続いて夏にはアメリカのツアーをこなした。内容はQuadropheniaに加え,ヒット曲も組み込まれるようになっていた。

The Whoとの仕事の合間を縫って,ザックはその他のバンドのセッションやライブにも参加を続けていた(もちろん,The Whoのスケジュールのために,断った仕事もいくつかあった)。中でも大きな仕事だったのは,97年10月からのThe Lightning Seedsへの参加である。ザックは新しいドラマーとしてバンドに向かい入れられ,スタジオだけでなくツアーも同行し,98年にはグラストンベリーやV98などのフェスティバルにも出た。

う1つセッションドラマーとしての大役は,1998年のBritish Rock Symphonyだ。ビートルズやストーンズ,ツェッペリンの曲を,大物ボーカリストが歌うこの企画には,ザックの他にサイモン・タウンゼント,ジョン“ラビット”ら,いつもの仲間がオーケストラとともにバックを務めた。ボーカリストの中心は,なんといってもロジャー・ダルトリーだったのだから。

1999年晩秋,The Whoが再び戻ってきた。アコースティックライブであるものの,ドラマーとしてザックは固定的なものになっていた。このチャリティーライブを機に,翌年2000年,The Whoは本格的なツアーを行なった。3期にわたる長期USツアーは6月から10月初旬まで続いた。その後は,11月に短めのUKツアーを敢行。この時の,The Teenage Cancer Trustのためのチャリティーライブは,久々に公式映像化されたThe Whoとして2001年に発売される。

The Whoとの仕事が忙しい中,2000年にザックはジョニー・マーらとJohnny Marr+The Healersというバンドを組み,オアシスの前座などで,いくつかのウォームアップギグをこなした。スタジオで数曲レコーディングされたものは,デビューシングル「The Last Ride」として2001年10月1日に発売された。

2001年,ザックはHealersとして,The Whoは新しいアルバムのための準備でスタジオでの仕事が中心となっていた。しかし直ぐに彼らはステージに戻ることになる。2001年10月20日,ポール・マッカートニーの呼びかけによるテロ追悼ライブ,The Concert For New Yorkで,The Whoは4曲を披露した。

2002年2月8&9日,The WhoはThe Teenage Cancer Trustのためのチャリティーライブを行なった。そして,これが,ジョン・エントウィッスルの最後の公式ライブとなってしまう。
6月下旬からThe Whoは4期にわたるUSツアーをこなした。ザックは合間を縫ってはイギリスに戻り,リンゴが参加した「ビートルズの夕べ」で,父親のバックを務めたりもしている。
9月,忙しかったThe Whoとの仕事が一段落ついたが,ザックはいつだって彼らのドラマーである。11月には“Friends”としてロジャーのバックでドラムを叩いた。

2003年。結成から2年が経ち,Johnny Marr+The Healersのアルバムが発売された。1&2月にはUSツアー,2月下旬はPearl Jamの前座としてオーストラリアツアー,そして3月には待望の日本上陸!その後は,EUツアー,UKツアーと続いた。

2004年3月。The WhoのウォームアップギグおよびTeanage Cancer Trust出演で始動。The Whoとしてワイト島のフェスティヴァルに出演する傍ら、ドラマーが脱退したOasisのヘルプとしてグラストン・ベリー・フェスティバルにも出演。
The Whoの初来日(ロック・オデッセイ出演)では、横浜と大阪でその雄姿を見せてくれた。The Whoのツアーは日本からオーストラリア、ハワイ、アメリカと続き終了。帰国後の9月にはParty In The Paddock(チャリティ)に顔を出した。
夏にヘルプをしたOasisとは冬からレコーディング。彼らの6作目となるアルバムのほぼ全曲に参加した。

2005年。ニューアルバムを携えてツアーを開始するOasisに同行。ツアーは5月から始まり、結局翌年の3月末まで続いた。8月にはOasisのサポートドラマーとしてサマー・ソニック05に出演。それにより、日本のフェスティバルは3つ制覇となった(Healers@フジロック、The Who@ロックオデッセイ、Oasis@サマソニ)。11月には、Oasisのツアーで単独来日も果たしている。

2006年。3月にOasisとの契約も切れ、再びThe Whoに戻ってきたZak。新作を携えてのThe Whoワールドツアーは6月より開始される…。

 

(Last Update 25.05.2006 B-ko)