6月4日(火)サッカーの闇

またも止まってしまいましたね。年度替わりは鬼門というか、諸般の事情からサイト継続の危機に陥ってしまうようです。どうも、見に来てくださったみなさん、ごめんなさい。まだ続けようという意志はあるようなので、もう少しがんばってみようかと思います。突然サイトがなくなっていたら、そんときはお亡くなりになったものとして諦めてください。

さて、復活?の手みやげを何にしようかなと安直に考えてみて、これはやっぱサッカーワールドカップしかないでしょということで。サッカーというのは不思議なスポーツというか、人間の特徴的な能力である手を封じるという、実に奇怪なルールで成り立っています。でもって、オフサイドとPKという、これまた奇妙なルールでいわばセキュリティホールを開けておいて、「興行」の可能性を巧みに付加してあります。

とか書き出すと何のこっちゃと思われるかもしれません。実際、私のような考え方が通用するものかどうかわかりませんが、ま、いぜんと同じだよーということで、だらだら書いちゃいます。

まず手を使わないという基本ルールですね。まったく調べることなく書いてますが、例の、バイキングが戦闘で殺した敵の首を蹴って遊んだのが起源とかいう話、どうもうさんくさく思われます。シャレコウベを蹴ったというのは恐らく本当なのでしょうが、「遊び」という言葉で表現される現代的な意味ではない、宗教的な意味づけが隠れていそうに思われるのです。ま、根拠なし話なので、どーでもいーつえばどーでもいいのですが、手の封印にはあるいは呪術的な意味がかつてあったのかもしれません。

いずれにせよ、このルールによって、サッカーは特異なスポーツへの扉を開くこととなりました。もともと動物の中でもとりわけ運動能力の低い人類にあって、唯一繊細な運動能力を誇る手を使わないのですから、その結果はある意味悲喜劇です。よほどの能力に恵まれない限り、いや恵まれたとしても、ボールを巧みに操ること能わず、無様に失敗を繰り返し、なかなか点が取れなかったり、逆にやたらに点が入ったりで、勝負がひどく不自由になってしまっています。

けれども不思議なことに、こんな不自由なスポーツが、世界で一番人気があるのですから驚きです。いや、例外がありましたね、アメリカを除いて、です。聞くところによると、アメリカでサッカー人気が振るわない理由がまさにこれ、なかなか点が入らず、多くのゲームが同点になり、本番の試合と比較してあまりに単純なPK戦で勝敗を決めるなどというトンデモな無様さ、矛盾、不合理さが理解できないんだそうです。さもありなん。

このあたりどう理解すればいいのかといえば、これが以外に簡単で、ワールドカップが国家間の代理戦争であると言われる真の意味に気がつくなら、そっこー解決してしまいます。

近代国民国家というのは、ぶっちゃけた話「戦争装置」です。戦争をすることを第一目的に存在しているのです。このあたり、わかんない人は近現代史をちゃんとした本などで勉強してみてください。日本国もいちおう近代国民国家ですから、れっきとして戦争装置です。でもって戦争しない国家はその存在意義を失います。事実として日本は事実上崩壊しているのですが、憲法第九条が存在する以上、これは当然なのです。

現代のまっとうな国は、もちろん戦争なんぞしてはいけません。そんなことしようもんならイラクのごとく世界中から袋だたきにあいます。国家とは戦争するために産まれたものであるのに、立派な国家であればあるほど戦争ができないのです。いかにも現実世界らしいものすごい矛盾です。

そんな矛盾のガス抜きがサッカーというわけです。だから現実の戦争をよりよくシミュレートした方が、国民国家としてはよりバーチャルリアリティを感じ、国家の本懐としての快感を味わえるのです。

しかし、戦争のリアリティとは何でしょうか。実際にはここ数十年、まっとうな戦争(つまり国家間の外交としての戦争イコールゲームとしての戦争)は行われていませんから、現実の戦争という概念措定自体が無茶苦茶なんですが、国民国家という亡霊が世界をむやみにさまよっている以上、そっちの現実を優先せざるを得ません。

戦争のリアリティを理解するよいお手本が、戦争シミュレーションの雄、チェスです。チェスをご存じの方はここではたと気がつかれると思いますが、これってある意味サッカーそっくりです。チェス・オリンピックの10番勝負は、一勝一敗八引き分けなんてのがざらです。どうにも不自由きわまりないゲームです。けれども、まさにこれこそが「現実の戦争」のイメージなのです。

なかなか勝敗がつかないというリアリティをまとう、実はバーチャルな戦争といえども、必ず何らかの決着をつける必要があります。「現実の戦争」イメージは、そこで休戦協定あるいは平和条約を用意することになるのですが、これはもはや「戦争」ではなく、日常と連続した外交交渉とあいなります。そんなものはゲームとしてのサッカーには不必要です。そこでサッカーの場合、勝敗の決定自体はPK戦という、実に単純なシステムを用意します。勝敗のつかない試合と、単純なPK戦のとりあわせは、しかしこのように考えれば何の矛盾もありません。これでいいのです。

というわけで、世界がワールドカップに熱狂するのは当然ということになります。もちろん、サッカーはワールドカップだけではない、セリアAもあればブンデスリークもあるのですが、戦争というもの、国家間だけでおこるものではありません。水争いがあればゴミ戦争だってあるのです。あらゆるレベルでの戦争のシミュレーションを、サッカーは見事に担ってくれているということなのでしょう。

ここまで話を拡散すれば、アメリカでの不人気の理由も自ずと明らかではないでしょうか。アメリカは世界最大最強の軍事国家です。戦争に関わるフラストレーションなど存在しません。ちまちました不自由きわまりないシミュレーションなんてやってらんないわけです。人種差別レベルのシミュレーションは、もっと派手にドンパチやって明快に決着の付く、そうアメフトやバスケ、そしてベースボールの方がよっぽどのカタルシスに違いありません。

次にオフサイドとPKについてです。これが奇妙なルールであることは、その運用を実際の試合で見れば誰でも気がつくと思います。ともに非常に恣意的であり、審判の裁量如何で勝敗がコントロールできてしまう可能性があります。サッカーという不自由の中にあって、ここだけが飛び抜けて「自由」なのです。

しかし、これも「現実の戦争」リアリティとつきあわせてみれば「あるある」です。戦争が2国間のみで行われることはまずあり得ません。陰に陽に様々な国々が介入してきます。例えば、今や一触即発核戦争危機状態のインドVSパキスタンですが、この背後にアメリカと中国があり、さらに欧露諸国が控えていることなど、世界の常識です。実際の戦争の勝敗は、当事国が決するとは限らず、むしろこういった大国の介入が決定的となります。奇妙に見えるルールもお里が知れれば納得です。

というわけで、ワールドカップが世界を熱狂させるというのは、いわば当然なわけです。ところで、まさに今日、日本VSベルギーの試合が行われるのですが、果たして日本は決勝トーナメントに進めるのでしょうか。例によってまったく当たらない予想をしてみましょう。

上記のような考察から、まっとうなら、日本はワールドカップには決して勝つことができないという結論が導き出せます。なにしろ日本国は戦争を公式に放棄しています。自ら近代国民国家であることを否定してしまっています。つまり参加資格すらない状態です。なぜワールドカップに出場しているのかすら不明のチームが、それぞれの国家を背負い、バーチャルではありますが命をかけて戦う相手に勝てるはずがないのです。

しかしその一方で、現実の日本はアメリカの庇護によりぬくぬくと生き延びてきています。同様のことはバーチャル化されてサッカーでも起こり得ます。いや、明らかな事実として今回ワールドカップ開催国になったのも、FIFAの、そして韓国の「介入」であることは明白です。

日本は「不況」ですが、これは貧乏という意味ではありません。それどころか、相変わらず日本は大変な富裕国です。巨万のストックが死蔵されている、とんでもない国です。こんなめちゃくちゃな状況に陥った国はかつて存在しません。

このストックを世界中が狙っています。当然、金まみれのFIFAもよだれが止まりません。一方で、かつて日本から独立した韓国は、自力でワールドカップを行う国力はありません。日本の金を目当てに、参加資格(戦争可能国家)を有する韓国と共催という形で、抱き合わせにしてつじつまを合わせたというのが、日韓共催の真相でしょう。でもってその目的は日本の金であり、アジア市場であることは明白ではないでしょうか。

とすれば、日本には勝っていただかなければなりません。最低限、決勝トーナメントに残って、日本には存在しないはずの幻の国民国家意識を発動し、ワールドカップの真の楽しみ方に気がついていただかなければなりません(ここはアメリカの介入でしょうが割愛します)。

明快な介入はオフサイドとPKでしょうが、サポーターの圧力という言い訳にまみれながら陰に日向に日本を勝たせる工作がなされるのではないでしょうか。もちろん、それでも勝てないようなチーム力であれば、そこはそれまでですが。

既に気がついている人は気がついているでしょうけど、そもそも日本がH組に入っていること自体が、大変な「ひいき」なわけです。これをくじ運などと思っているようなら、ワールドカップを半分も楽しめません。

ならばこそ、勝って見さらせ、日本!






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