8月28日(火)  池田小学校事件、その後への疑問

6月8日午前10時過ぎ、大阪教育大学付属池田小学校で、8人の児童が殺害され、15人が重軽傷を負うという事件が起こりました。事件そのものについてはただただ悲惨というしかなく、犯人に対する怒りを抑えることはできません。

しかし、この場で私が取り上げたいのは、事件そのものではありません。事件のその後の対応についてです。二度とこのような悲劇が繰り返されることのないよう、様々な反省と教訓が指摘され、対策が講じられることになったのですが・・・。

学校が犯罪に対して無防備であったこと、救急措置がほとんどとれなかったこと等への反省と対策は当然でしょうし、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に対する処置も必要でしょう。しかし、何とも不思議に思われたのが、校舎を立て替えるという件です。

池田小学校の現行の校舎がいつ作られたものか、私は知りませんが、報道を通して見る限りでは、かなり新しいもののようです。どう見ても老朽化はしていませんし、最小限に見積もっても小学校としての機能に支障があるようには思われません。

PTSDへの対応ということなのでしょうが、これっておかしくないですか。事件は起こってしまったのです。小学生の目前で8人が惨殺され、15人が傷を負ったのです。その事実は消し去ることはできませんし、決して消すべきではないと、私は考えます。小学校を建て替えるという発想には、事件の存在そのものを抹消しようとする意図が感じられます。けれども事実は変えられないのです。

世界は残酷にできています。幸いなことに、現代日本人として産まれた私たちに、この世の過酷さを思い知らされる機会はほとんどありません。けれどもこの世の残酷なあり方、苛烈なあり方は、私たちの周辺から消え去ることは決してありません。今回の事件は、正にそんな現実のあり方が、牙をむいたに過ぎないとも言えます。

私たちが生きるのは、まさに現実世界のはずです。ならば、悲惨な現実、目前でクラスメートが惨殺されるという現実をも正視しなければなりません。またそのような現実を正視する時、「愛」の絶対的必要性に気がつくチャンスが与えられます。

校舎を建て替えるべきではなかった、私はそう思います。どうしてもPTSDに苦しむ児童がいるというのなら、内装を変える程度の対応をする、あるいはそんな児童だけは仮説校舎でもいいかもしれません。やむを得ません。けれども、事件を児童の前から抹消しようとするのは間違っていると思います。多くの児童はPTSDを乗り越えられるはずです。惨劇のあった、正にその校舎で、その教室で事件と向かい合う、現実を正視するというのは、最良の教育の一つとなりはしないでしょうか。

そしてもう一つ指摘しておきたいのは、校舎の新築には、当然のこと費用がかかるということです。そしてその費用は、池田小学校が国立である以上、当然のこと税金から負担されるはずです。このような決定は誰が行ったのでしょうか?

惨劇があったから立て替える、私はこの発想に、安易さと現実を正視しない卑怯を感じます。この決定を行ったのが誰なのかは知りませんが、その決定に無批判に乗るマスコミ、そして現代日本の生ぬるさ、甘さ、いい加減さに言葉を失うばかりです。



8月20日(月)  映画「ナインスゲート」

映画「ナインスゲート」を見ました。妙な映画です。日本人としての私にはピンとこないというか、多くの人がラストで拍子抜けして、わかんねーぞ!な感想を持ったのではないでしょうか。

でも、ヨーロッパのインテリ階級だったら、たぶん違った感想を持つのだろうと思います。おそらくは共感と冷笑でしょうね。ヨーロッパ文明の深層には一種のニヒリズムが潜んでおり、これが理解できているとこの映画の主旨が透けて見えると思います。雑駁に言えば、これって監督(ポランスキー)のオナニーみたいなもんでしょう。

このヨーロッパのニヒリズムというもの、ニーチェとか持ち出すとやたらめんどくさくなるのですが、簡単に単純に言ってしまうなら、要するに存在の軽さ、あるいは死の恐怖ということです。近代自我が確立して後、盤石揺るがないかに見える自己確信、つまりは「私はある」という意識は、しかし誰しも避け得ない死によって必ず否定されてしまうということです。

ヨーロッパのインテリは、自分たちが成し遂げてきたヨーロッパ文明のすばらしさというものを、当然のようによく知っています。人類知性の頂点にいることを自覚しています。しかし、そのヨーロッパ文明が、結局、個を、そしてもしかして人類をも救済しないことも知っているのです。

ヨーロッパでは、死は当然のようにキリスト教の文脈で語られます。キリスト教がヨーロッパ精神の支柱であることは自明であり、死の救済はキリスト教の機能となります。しかし、キリスト教の教義は苛烈です。日本人にはピンとこないのですが、キリスト教は因果律ではなくて予定律を採ります。総ての人の死は「神」によって平等に「予定」されています。しかし、その中には死後復活することが不平等にも「予定」されている人がいます。復活する人が誰なのか、何人なのかは、人には決して知らされません。

つまり、究極の知性であろうが、珠玉の美であろうが、至高の聖人であろうが、そんな現世の人間の価値観とは何の関係もなく、人間の意志を一切排除して、ただ一方的に「神」の意志によって復活するものがおり、永遠の死に置かれるものがいる、そのように決められているというのです。

そんなのはいやだとばかり「神」を否定してみても、これが堂々巡りなのです。真の無神論(機械論的唯物論)は生そのものを否定することになります。「神」があれば存在があり、我がある、「神」がないなら、存在は存在せず我もない・・・。ちなみに、このような「神」のあり方は、実は現代理論物理学が描く宇宙論の世界と等価になります。このあたりは、仏教の唯識の考え方とも表裏のいわば対偶関係となっており、知性の指し示す方向は一致しているようです。

別の言い方をするなら、自己の存在が自明であれば「神」の存在は自明であり、「神」がなければ自己もない、そういう関係性として真理化するのです。つまりは「神」を肯定しても否定しても、我は滅びるのです。どこにも救いはありません。

こんな世界はいやだ、ヨーロッパのインテリ達の少なからぬものがそう考えています。できるなら、こんな「平等」で残酷なキリスト教的世界秩序から逃れたい、そう思っています。彼らはもちろん敬虔なクリスチャンです。しかし、同時に彼らはキリスト教が嫌いなのです。

そんな空気の中で、隠れるようにして、しかし脈々と受け継がれているのが悪魔信仰です。悪魔信仰の目的は、キリスト教的世界秩序からの脱出にあります。映画「ナインスゲート」は、まさにそんな文脈での悪魔信仰を扱っています。

悪魔信仰へのゲートとしてはしばしば性的なもの、具体的にはセックスが重視されます。日本の密教系立川流なども同様で、最近ではオウム真理教も行っていたようですが、映画「ナインスゲート」に出て来る謎の女性ですね、この女性とのセックスが、いわばゲートなのでしょう。

どうして主人公が選ばれたのか、そんなことはどうでも良いのです。ゲートの向こうはどうなっているのか、これまたどうでもよいのです。この映画で描きたかったことは、キリスト教秩序からの脱出であり、その方法なり結果なりは合理的であってはならないのです(「合理的」こそが神の意志です)。

そして、この映画に隠された真の意図は、その悪魔のゲートである謎の女性を演じた女優が、監督の奥さんらしいというところに集約されると、私は考えます。これって要するに監督の願望の世界じゃないでしょうか。あー死にたくない、悪魔(奥さん)とセックスすることで悪魔に身売りしたい・・・っていうか、こんなのが冗談ですまされないのがヨーロッパ知性の苦悩の底知れなさなんでしょう。





8月14日(火)  明日は敗戦記念日

明日、8月15日は敗戦記念日です。現代に生きる私には、この日の具体的なイメージなど持ちようがありませんが、まさに現代日本がここから始まったわけで、思うところは複雑です。

この日の恒例行事の中で唯一、小さな頃からとても好きだったものがあります。それは高校野球の甲子園大会で、正午のサイレンとともに選手観客ともども黙祷を捧げるシーンです。それまで必死にプレーし、熱く応援合戦を繰り広げていた球場が、一瞬の静寂に包まれるのです。私の意識の中では、この一瞬勝手に蝉の声が一段と大きく鳴り響きます。何かの象徴のような、しかし実像を結ばない幻想のような時間です。

サイレンが終わると、また何事もなかったかのように試合は再開されます。一瞬の奇妙な空白と、何事もなかったかのような試合の継続。あたかもなんの脈絡もなく放り込まれ、また忘却の彼方へと放逐される、所在なげな夢幻の一瞬であるかのように。

昨日(8月13日)、小泉首相が靖国神社を参拝しました。それが15日ではなかったことに賛否両論でこだわる意見の洪水を眺めながら思ったことは、私たち日本人が、そして東アジアの人々が、未だに第二次大戦(大東亜戦争)の死者達を埋葬できていない、弔えていないという現実です。

その一方で、小泉首相の記者会見に、私は不覚にも涙してしまいました。この人は政治的なパフォーマンスではなく、今に生きるものの当然の義務として、そして一国の総理大臣として死者達を弔い、その死を引き受けようとしていました。その覚悟を表明していました。

記者達の、そしてキャスター達のアホさ加減にただただ呆れつつ、そして諸外国の抗議声明に込められている政治まみれと対比して、小泉首相の発言に、私は「愛」を感じました。死者へ手向けることのできる唯一にして最良のものである「愛」、そのためにこの人は靖国へと向かったのだと納得できました。

ならば「いつ」にさしたる意味などありません。8月15日へのこだわりこそ「政治」です。死者達にとってそんな日付は無意味です。大事なのは、現代に生きる私たちの心です。純粋に死者達を弔えた時、そのとき過去は現在へと昇華されます。

ようやく心から尊敬できる政治家というものを目にしたように思います。もちろん私が他の政治家を知らないだけなのかも知れませんが、少なくともテレビを通してみる限り、例えば鳩山由紀夫氏はアホにしか見えませんし、志位和夫氏には「愛」のかけらも感じられません。

もちろん政治家たるもの、「愛」に生きようとすれば容易に足下をすくわれ兼ねません。闇、あるいは汚辱にまみれながらも、その総てを包含して「愛」とする、もちろんそんな大それたことは人には不可能ですが、それでも小泉首相、どこまでやれるものか、期待はしませんがポジテイヴに見ていきたいところです。

ところで、戦没者を追悼する無宗教の新施設を造るなどという冗談のような話が浮上しているようですが、そもそも無宗教では死者を弔うことなどできようはずはなく、かつ、諸宗教がこぞって追悼するということであれば、それこそ国家による宗教への介入です。愚かさを愚かさで糊塗するなんぞやめようよね。



8月8日(水)  靖国で会おう・・・

マスコミ報道を通して見ている限り、東アジア全体を巻き込んでの大騒動となっている「小泉首相の靖国神社参拝」。マスコミ報道を通して見ている限り、言語道断の祭政一致、軍国主義的な「小泉首相の靖国神社参拝」・・・、とま、冗談が過ぎるかなと思いつつ、なんか類型に過ぎるんで、こんな書き出しをしたくなっちゃいます。いったい何が問題なんでしょう?

政教分離の問題であるなら、手続きに配慮すればいいことです。それ以前に、小泉首相の信仰が何なのかは知りませんが、神道である可能性は低いでしょうし、多くの日本人だって、自分が神道を信仰しているとは思っていないでしょう。政教分離と言いながら信仰の如何を問わないというのも奇妙なことです。

例えば小泉首相の信仰が臨済宗であるとして、靖国神社という神道の施設に参拝するというのであれば、これが宗教行為ではなく習俗として行っていることは明らかです。かなり厳格な判断が下されている司法の判例はともかく、原則、政教分離の問題などありません。

A級戦犯合祀の問題であるなら、日本人の習俗として死者をむち打たないのは当然のことですし、もちろん既に刑は執行されているのですから、刑に刑を重ねることもあり得ないことです。いや、それ以前に、平和条約締結によって東京裁判は失効しているはずです。

軍国主義復活云々という声も聞かれますが、それがいかに非現実的な考え方か言うまでもないことでしょう。大日本帝国の軍国主義は、歴史的必然から発生したものであり、そのような必然性は、もちろん現代日本には存在しません。

そんなつまらないことで頭を悩ませるより、ここで考えなければならないことは、人にとってもっとも大事な勤めである死者を弔うという心です。第二次大戦で亡くなった日本軍兵士の多くは、「靖国で会おう」と誓ったと聞き知っています。本心は違うとかいろいろ面倒なことを言う人もいるにはいますが、事実として、そうです。

死者を弔う時、最も大事なことは死者の意志を尊重するということです。可能な限り死者の気持ちをおもんばかることです。それが生者である私たちができる最小限にして最大限の「愛」です。「靖国で会おう」と誓い、散っていった無数の命を思い、心を込めて弔うこと、それが最も大事なことです。

政治的、外交的には、多くの問題を噴出させることになる小泉首相の靖国神社参拝ですが、私としては是非、それも8月15日に実行してもらいたい、そのうえであらためて平和のありがたさを噛みしめつつ、決意を表明してもらいたい、そう期待します。

人を評価するもっとも良い尺度は「愛」の有無です。政治的、外交的にマイナスであっても、死者達へ「愛」をもって向かい合うことができるなら、そんな小泉首相という人を、私は尊敬したいと思います。



8月3日(金)  新しい歴史教科書

マスコミ報道を通して見ている限り、東アジア全体を巻き込んでの大騒動となっている「新しい歴史教科書」。マスコミ報道を通して見ている限り、言語道断の右翼偏向、軍国主義的な「新しい歴史教科書」。当然のこと、ここまでマスコミが騒いでいるのだから凄い内容に違いありません。

そんな凄い教科書、読まないわけには行きません。幸いなことに当の「新しい歴史教科書」は市販されています。というわけで書店へ直行、ちょっとドキドキしながらページをめくってみました。でもってざーーーっとばかり、立ち読みしちゃいました。購入の意図が急激に萎えて行くのが分かりました。こんなのいらないや・・・・・・。

以上、なんだか嘘っぽい事例ですが、事実関係についてはほぼこの通りで、私は「新しい歴史教科書」を購入しませんでした。んなもので、手元に当の原本を持たずにこれを書いてますから、枝葉末節的に誤りがあるかも知れませんが、そこはご容赦下さい。

ようするに問題の「新しい歴史教科書」なるものは、なんのことはない、ごく普通の教科書なわけです。目新しい記述も凄い内容も、なーにもありません。はっきり言ってつまんない教科書そのものです。正直、何が問題なのか、どこが偏向なのか、さっぱり分かりません。こんなもんで何で「国際問題」になるの?ってな感じです。

しかし、マスコミがあながち虚報ばかりを垂れ流しているわけでもなく、事実として大韓民国(以下韓国)などでは、政府のみならず民間レベルでも様々な抗議行動が起こっています。中華人民共和国(以下中国)政府要人も怒ってます。やはり異常事態には違いないようです。いったいぜんたい問題はどこにあるのでしょうか?

この謎(?)を解くカギは、実は意外と簡単で、まさに東アジア諸国の歴史そのものに端を発していると私は考えます。このあたりの歴史は地雷原みたいなもので、どこから手を付けても大騒動になりかねないのですが、こんな弱小サイトを見ている人はほとんどいないでしょうから、気にせずがんがん書いちゃいます。

結論から言えば、韓国も朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)も中国も、実はみんな抗日、反日運動から国家形成に至っています。もっとぶっちゃけていうと、アンチ日本=愛国という形で、ネガティヴに日本に依存することで国家を成立させてきたわけです。さらにさらに過激に、この歴史的事実を日本中心の視点でみるならば、アンチにせよ結果的にせよ何にせよ、日本が韓国を、北朝鮮を、中国を、いわば造った形になっているわけです。

だからだから、そんな国家形成の秘密みたいなもんに日本人が無頓着に近づいて見せたもんだから、パニックに陥ったんです。自分たちも気づきたくないし、まして日本人には決して近づいても欲しくない、そんな、まさにタブーなわけですよ。この問題は。

「新しい歴史教科書」は、従来のものよりほんの少し視点が日本中心よりで、ほんの少し近現代史が詳しいだけなんだろうと思います。けれどもたったそれだけのことで、韓国とかは侮辱されたように感じたのではないでしょうか。別に記述として書いてある訳じゃないのに、韓国という国家は日本が造ったんだなどという悪意が込められている、そう過剰反応したんじゃないでしょうか。中国に至っては、下手すると国家分裂の危機ですから、いかに外交的にまずくても、黙ったままでいられようはずもありません。

よく識者と称する人が、各国の歴史認識の摺り合わせ云々とか言ってますが、そんなことできるはずがないんです。誰だって気がつきたくないことは気がつかないままほっときたいですし、都合のいいことは誇張したいもんなんです。

というわけで、たかが弱小の、それも中学校の歴史教科書の問題で国際関係がぎくしゃくするのは国家的損失です。ここは小泉首相が強権を発動して、「超法規的」に焚書にしましょう。そうすれば東アジア諸国も国内の「進歩的文化人」も大喜びです・・・って、それってまさに国家権力の介入つーんじゃなかったっけか?



8月1日(水)  チュッ!夏パ〜ティ

再開3日目だけど毎日更新です。ほんとかよー。でもって、またまた娘。ネタ。やっぱりやめられないものはやめられない・・・のかな。ま、次あたりは時事ネタでもやりましょと予告。

さて、「チュッ!夏パ〜ティ」です。これは一言述べておかずにはいられない、見た瞬間、聞いた直後、ぶっとびました。ズラがどうとかパンツがこうとかは、とりあえず私には重要な問題とは思われません。どっかで聞いたようなメロディだけど、こちらもつんく作品にはよくあることで、空耳のようなものです。

なによりすばらしいのは、この曲、そしてパフォーマンスで表現されている思想(というよりは無思想?)です。徹底的に快活明朗、翳りの欠片もない脳天気、もうどう表現して良いのか困ってしまうほどのあけっぴろげでクソまじめで全力投球の大バカアイドルポップ!。

脳天というよりはアグニ・チャクラ直撃(といってもロリという意味ではありませんよ為念)のぶっとびぶりです。ロリに目を曇らせることなく、この直球勝負を正視せよ。こんなのかつてあったか?どっか奥ゆかしかったり、フィジカルしてたり、脱力してたりってのはあったけど、こんな真っ向正面突破ってのは初めてでないの?しかも娘。関連という明々白々のメジャーな世界で。

何度か書いているけど、人生とか恋愛とかの苦悩なんてたいがいが自家中毒というかナルシズムのようなものです。思想とか哲学なんてほとんどがオナニーのようなもんです。そんな高尚ぶっててもたいして益することなどありません。苦悩しているヒマがあったら、さあみんなで勝負!勝負!パーティパーティ!

以上、なんか、ネットとか見て回っても、この曲を手放しで誉めてるところがないようなので、私が褒め称えることにします。あんたら、ほんとにすごいよ。






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