それは、一日分のギャラじゃなくて10日分(一席分)でした。  
もう一つビックリしたのは劇場のギャラが安い事、「ハイ3千円」と渡してくれたのは良いけど、  
のおかげで、ウルフルズファンには浸透してるみたいです。(松本くん有難う)    
とは言っても、若い人には認知度が低いけれど、トータス松本くんのエピソード 
NHK「思い出のメロディ」に連続出場、民放局からも多数のオファーを頂戴しました。 
「宗右衛門町ブルース」は、永く歌い継がれ2005年に再浮上、
彼らはいつでも、やっさん兄さんにドツカレてました。(たかしクンとも遊んだなぁ)   
勝チャンの弟のトシヒコ(笹山サンバ)も漫才してて、彼とは同い年やったんでスグ友達になった。 
他には新人の横山たかし・ひろし。(横山やすしさんの弟子・法螺吹き漫才) 
ハッキリ言うて、あんまりオモロなかったけど勝チャンの森進一の顔真似がスゴかったな。 
後から解ったんですが、ここのお客さんは演奏や歌が大好き。(まぁ大阪のラテン地区やね)  
そんなハチャメチャな劇場の共演者にギター漫才の「平和勝一・勝次」がいました。 
新聞のお客様なんか「バナナ食え」言うて、食いさしくれた。(食えるかい!) 
次の瞬間「ワンダフル!」とそのオッサン、大拍手!(長靴で来る方がワンダフルやろ) 
僕は心の中で「 ウルサイ言うても、ヤメヘンぞぉ 」と弾き続けたった。 
すると、前の席で寝てたオッサン(晴天に長靴姿)がムクーと身体を起こして、僕をジーっと見た。 
「よーし、デカイ音で起こしたろ」と叩くように津軽じょんがら節を弾いてやった。 
新聞読んでる客までおる。( GSで若い女の子にキャーキャー言われてたのにオレ‥‥涙 ) 
舞台から客席を見渡してビックリ! ほとんどが中年のオッサン、酒臭い客、寝てる客、中には 
ジャンジャン横丁の「新世界花月」。 (師匠に西川ヒロシの芸名を貰う) 
「ちょっとソロだけ、喋らんでエエから」と、連れて行かれたのが通天閣が見える    
そんな時、以前から顔見知りやった西川ヒノデ師匠に「ウチのショーでギター弾けへんか?」 
僕は、GS.BAND解散後ボーっとしてました。 
つらい時期やった、数年つづいたGS(グループサウンズ)ブームも去ってギターの仕事も無く 
1970年、春頃。
「宗右衛門町ブルース」「平和勝次とダークホース」の誕生秘話などを書きたいと思います。   
 
また、多くの歌手にも歌って頂いております。
まぁメンバー全員がシニア世代になったし、200万枚の感謝も込めて、昔を思い出しながら   
 
そういえば売れてから「宗右衛門町を全国に広めた」と表彰された事もあったなぁ‥‥。      
地方での知名度は低く、まず大阪のミナミに存在する事から説明して歌っていました。     
レコードが出た頃は宗右衛門(ソエモン)を「ムネエモン」とか「ソウザエモン」とか、 
ちなみに(へいわかつじ)と読みます。  
まるで漫才? それもその筈で平和勝次はお笑い出身である。(師匠が平和ラッパさん) 
平和−「セイネンやのうてテイネンやろ!」 
僕  −「オレはまだ50代の青年や!」 
平和−「アホ! オマエもトシ変わらんやないか!」 
僕  −「還暦も過ぎた老体では旅するだけでシンドイやろ」 
彼は年間、約150ヶ所 で歌っている。(近畿地区は中川ヒロシが案内しています)
僕 −「そうやな、それというのも勝チャンが日本中で歌ってくれてるお陰や」
平和−「今になってまだ買ってもらえるなんて、お客さんに感謝や、ありがたい事や」 
彼は、もう10年近くチャリティ(老人会など無料招待)で「全国縦断 歌の旅路」をしている。 
「うひゃー! もう休憩時間に使うたがな」どうしょう‥‥  
 
喫茶店にも行かれへんから楽屋でギター弾いてると、「自分ギター上手いな」と     
言うてくれた人がいます。(大阪では、話し相手の事をジブンと言う)
振り向くと、そこにニコニコした平和勝次がいました。
僕  −「ありがとう、勝チャンも歌うまいなぁ」 
平和−「ほんまか?ありがとう、俺なミナミのクラブで弾き語りしてるねん」 
僕  −「エー、すごいなぁ、何でも歌えるんや」 
平和−「まぁな、オモロイ店やから又、ギター弾きにおいで」 
これが平和勝次(25才)と中川ヒロシ(桐野19才)、宗右衛門町ブルースへのスタートでした。
クラブ「モ ン ク ー ル」宗右衛門町、相生橋筋北側
その店のドアを開けた途端、僕の眼に「スゴイ光景」が飛び込んできた。
着流し姿 (かなり薄汚れた) の男性老芸人がダミ声で唄いながら踊っている、
それだけならイイが、その芸人はベロンベロンに酔っ払っていて何を唄っている
のか歌詞が解らない、そのうえ着物がハダケタ間からチ○チ○が丸見え〜。
ポカンとしている僕を見つけてトシヒコ(ウエイターのバイトをしていた)が飛んで来た、
トシ−「ヒロっちゃんエエ所に来てくれたわ、歌いたいお客さんがおるねん」
僕 −「踊ってるあの人か?」
トシ−「違う違う、アレはマスターや」(笑)
その一言で僕がイメージしていた「クラブ」→「ジャズBand」→「蝶ネクタイのマスター」   
→「日活映画」→「白木マリのセクシーダンス」という淡い夢と憧れがブッ飛んだ。  
クラクラしてきた頭の上で「ハィー! ただいまギターの先生が到着しました」と  
耳鳴りしそうな声が響き、着流し酔っ払いマスターが僕を手招きした。
マスター「この先生はミナミで一番のギターの先生で、本日のゲストです」
僕 − 「その曲、知りません‥‥」
僕 − 「一番? ゲスト? オレ、ミナミに初めて来たんやけど‥‥」
この酔っ払いマスターは、僕の言葉なんか全く無視して。
マスター「浪曲子守唄! ツェ〜(C)で!」
マスター「大丈夫! マスターがリードするから」
無茶言うな! ジミヘンみたいにギターでアチコチ叩き割りたい衝動を何とか抑えて、
僕 − 「先に唄い出して下さい、何とか付いて行きます」
マスター「よっしゃ、そしたら最初にジャーンとツェ〜の音を出してくれ」
言われた通りCのコードを弾いた、すると見事に違う音からこの人は唄い出した。
しかも、音階はメジャーでは無く、あきらかにマイナーだった。(それも中途半端なA♭m)
僕は心から、この店の扉を開けた事を悔やんだ。
しかし、本当に人生は解らない、この直後に運命的な出来事が起きるのである。
やがてリクエストタイムになり、専属の女性歌手やホステスさんが歌った後に、
客席から中年の紳士がステージ横まで歩み寄り「宗右衛門町ブルースを歌いたい」
初めて聴いた「宗右衛門町ブルース」
と、チップを5千円くれました。
初めて耳にするタイトルだったんで「宗右衛門町ブルースって有るんですか?」
と聞き返しながら「チップ貰ったのに知らんとは言い難いなぁ」と考えていると
「おはよう!」と言いながら平和勝次がステージに上がって来た。
僕  −「あっ勝チャン待っててんで、宗右衛門町ブルースって知ってるか?」 
勝チャンは笑いながら「リズムは3連や」と簡単なスコアを渡してくれました。
そしてエレクトーンでイントロを弾き、そのお客さんに歌わせながら
気が付くと間奏を弾きながら「歌謡曲も悪ないなぁ」「暫らくは宗右衛門町に来るで」と
平 和−「この曲どうや、エエやろオリジナルや」 
僕  − 「へぇ!スゴイなぁ、ええ感じの曲やんか」 
平 和−「ミナミでは平和勝次のテーマソングみたいなモンや」 
大阪ミナミ「宗右衛門町」を全国区にした男達!
平和勝次とダークホース メンバー 中 川 ヒロシ (作曲家・桐 野丈二郎) 筆記
宗 右 衛 門 町 ブ ル ー ス
ブツブツ独り言を言っている僕がいました。
僕 −「やぁかましいわ、ミュージシャンに定年ないわ〜ぃ!」 
新世界花月、角座と出演して行くうちにギターだけでなく喋りも面白くなって来て、
音楽ショーは楽しいなBANチャン(板東春彦)との出会い
ヒノデ師匠に「おっちゃんヨボヨボやな! そんな杖突いて舞台上がったらアカンわ」
とアドリブ飛ばしたら「アホ! これはヴァイオリンの弦や!」と師匠がツッこんでくれて、
客席の笑いがドカン! もう最高! 忘れられない快感!
となると欲が出て、面白い喋りとネタは無いかな? と他の音楽ショーの舞台も見ました。
するとスゴイ男を発見、早口でポンポンボケながら筋フリ(司会進行)もして行く段取りの良さ、
「あれ誰や?」と周りの者に聞くと「BANちゃんや」 「そやけど、アイツ気短いで」
「やっさん兄さん(横山やすし)も彼にはイチモク置いてるからな」
向こう気の強い僕は「別に、何ともないで」とガゼン対抗心が湧き上がったのを覚えています。
平和勝次から「宗右衛門町ブルース」が200万枚突破したと連絡が入った。 
ある日、勝チャンから「宗右衛門町ブルース」を自主制作すると聞かされた。
自主制作レコード「宗右衛門町ブルース」
「ヒロシ、アレンジとバック演奏してくれ」と言われ、ベースとドラムを連れ某スタジオに行くと、
楽しそうに打ち合わせしている勝チャンと小春さん(現・桂福團治)が待っていた。
平和− 「ヒロシ、小春ちゃんのペケペン節とカップリングにしたんや」
僕  − 「そら良かった、もう一曲は何にするのか心配しててん」
平和− 「ペケペン節はギターだけでエエから、ヒロシ頼むで」
*曲終わりに「しょうもなぁ〜 こんな歌よう聞きましたなぁ、表のほうが面白おまっせ!」
こんな感じで、「宗右衛門町ブルース」「ペケペン節」の両A面レコード録音終了!
と、お互いに相手の曲を馬鹿にする無茶苦茶なエンディング。 (シャレっ気満点)
勿論、これが大ヒットのキッカケになるなんて知る由もないレコーディングでした。
その彼こそ「あひる艦隊」の若きリーダー・板東春彦でした。
メンバーは殆ど「うん」とか「なんでや」と言うだけでドカン、ドカン受けてました。
平和勝次とダークホース誕生の瞬間
その後、BANチャンは「あひる艦隊」のリーダーを返上して、「ダークホース」と改名。
僕はスカタンボーイズの再結成に参加して、お笑い音楽ショー(ボーイズ)をしてました。
そして歴史ある関西の音楽ショー「あひる艦隊」と「スカタンボーイズ」が合体するのです。
感想をお待ちしております→ 
板東   平和   中川
昔、宗右衛門町「田舎そば」の上に、吉本興業のバンドマスターの店がありました。
当時、吉本の劇場では歌とコントの「ポケットミュージカルス」というコーナーがあり、
歌手もバンドマンも所属していたのです。
ある日、勝チャンからこの店に集合が掛かりました。
ここには、トラ(バンドメンバーに欠員が出たときのエキストラの事)で行った事があり、
「誰かサボったんやなぁ」と思ってドアを開けると、何か雰囲気がいつもと違います。
「宗右衛門町ブルースを出さないか?」と「レコード会社3社から誘いがあるんや」
皆がちょっと緊張した感じで、その中にはあのBANチャンの顔もありました。
しばらくして、おもむろに勝チャンが言いました。
が気安く「良かったな勝チャン!ヒットしたらエエのになぁ」と言うと。
「ヒロシ呑気な事うてる場合ちがう、お前も含めてグループで東京行くんや」
本当に全国の「宗右衛門町ブルース」ファンの皆様、有難うございます。
この時点でヤット僕は、この雰囲気の意味を理解しました。
そしてBANチャンが来ていた理由も解りました、勝チャンは2つのグループを合体させて
BANDを作ろうと考えていたのです。
なるほど、「勝チャンの歌」と「BANチャンのギター&しゃべり」が有れば心強い。
「オレはベースに回ろう」と思っていると、BANチャンがソット僕に言いました。
BAN− 「ヒロシ、リードギター頼むで」
僕  − 「え〜、BANチャンが弾いてえや」
BAN− 「俺、もうベース買うてん」
とアッサリ決めてしまいました。
と言うと印象が悪かったけど、この時ハッキリと判りました。
それまでBANチャンとは会話する事も少なく、最初に聞いた噂もあったのでどちらか
もちろんBANチャンが下手だから、ではありません。
どころか、GS上がりで譜面がおぼつかない(当時のGSの者は殆ど耳コピーだった)
僕なんかよりシッカリ弾きます。
この人(BANチャン)は、「気が短くてヤミクモに怒るのではない」「エエもんを作りたいんや」
でないと、自分のポジションをポンと後輩に譲れない。
「よ〜し、オレにギター弾かせて良かったと思わしたろ」そう思って気合が入りました。
そして譜面の勉強もしました。(あまり甲斐なく、作曲家のくせに今でも苦手ですが)
もっとも僕の気合とはウラハラに、「宗右衛門町ブルース」が売れ過ぎて、ほとんどの
仕事はフルバンド付きになり、今度はコーラス(難し過ぎた)に四苦八苦。
まぁ、こう書いたら音楽一筋の真面目な好青年に見えるけど、勿論そうじゃない!
昔は写真週刊誌が無くて良かったの連発、最近の山本M不倫事件なんて目じゃない。
もっとも、あれだって本当に文句が言えるのはワイドショーの奴らじゃ無く、巨人の選手の
女房だけでしょう? それに「美人で男グセの悪い女」は、大勢いるほうが絶対楽しい!
僕  − 「おはようございます、小春兄さんどないしはりましたん?」
失礼! 話がそれました、「宗右衛門町」の方に戻します。
当時は歌謡曲、演歌全盛でミリオンヒットといえば殆どが、このジャンル。
ポップス系は、その半分にも満たなかった(今とはまったく逆)時代です。
でもこの年は、ちょっとだけ違った傾向が有りました。
それは「ぴんからトリオ」(後のぴんから兄弟)の「おんなの道」の大ヒットです。
言わずと知れた「ぴんからトリオ」は同じ関西の「音楽ショー」の先輩。
さすが今も昔も業界は「売れ筋」には目敏い!
それまでの歌手といえば美男美女が当たり前でしたが、「ぴんから」さんと言えば
決してそうじゃない、特に「宮 史郎」先輩の顔は破壊されている(兄さんゴメンなさい)
そこに「平和 勝次」と殿様キングスの「宮路 おさむ」と来るんですから、
もう当時のレコード会社と世間は狂っていたとしか言いようがない。
(尊敬する兄さん方、重ねて失礼をお詫びします。 本当の事を言ってしまって)
さて、レコード会社もクラウンと決まり、レコーディングが終わったのが11月初旬。
「ぴんからトリオ」の対抗馬を探せ、という企画に僕達がピッタリだったんですね。
発売日が12月5日、今思うと会社は焦り気味の超スピード発売だつたんですね。
これが、後々の僕達の運命を大きく左右する事になるのですが・・・
「レコード発売キャンペーン」
いくら歌謡曲全盛時代といっても、そんなに簡単には売れない。
昼はレコード店での即売、夜はネオン街でのキャンペーン。
現代のCDショップ・インストアLIVEのようなPA(マイク音響)なんて勿論無し。
みかん箱みたいなステージがあればイイほうで、カセットを流して大抵は地べたで歌う。
無名新人、聞いたこと無い曲とくれば誰も止まって聞いてくれないのは当たり前で、
聞いているのはサクラのマネージャーと野良犬という悲惨なキャンペーン。
夜はキャバレー、クラブ、スナックに飛び込みでキャンペーンのお願い。
「バカ明るい」前向きキャラで、いきなりお店へ入り喋って歌います。
それでも「今日は何処からいらっしゃいました、名前はポチさんですか?」
と、BANチャンと僕がヤッテしまうからレコード店の人が大笑い!
「ゴメンな客が少なくて、うちの店で明日からジャンジャン売るからな頑張りや」
と言って本当に何百枚も売ってくれた店も有りました。
選挙演説みたいに「宗右衛門町ブルース」のタスキ掛けなんで、客じゃない事は
一目瞭然、スグ追い出されますが5店に1店位は「面白いからモットやって」
と言ってくれる優し〜い「お姉さん」や物好きな「お客さん」が居りました。
先日もNHKの控え室で、「今でも飲みに行ったら、お姉ちゃんに惚れてしまうのは
アノ当時の恩返しなんや」と僕が言うと、すかさず勝チャンが「お前がスケベやからや」
と台本を見ながらツッコミました。(コレは台本に集中していない証拠!真面目に読め)
まぁ〜スゴク的確な回答なので反論は有りませんがぁ〜
底冷えのする冬の夕暮れ、お店へ出勤するホステスさんに手渡す「リクエスト袋」
この袋には宗右衛門町ブルースの歌詞が印刷してあり、中には十円玉が入っています。
そうです、この十円玉で「有線放送」にリクエストして貰うのです。
さっき袋を手渡したホステスさんが戻って来て、僕に「必ずリクエストするからね」と
熱い缶コーヒーをくれました。(今まで飲んだコーヒーの中で一番おいしかった)
その地区の「有線リクエスト」はランクアップ、大ヒットの要因になった事は周知の事実です。
TVやラジオなどには、そんなに出なかった(呼んで貰えなかった)僕達がヒットを出せたのは、
「草の根キャンペーン」を応援して下さった皆さんのお力だと、今でも感謝しております。
最近、体力がダメです、「もう年齢です」昼夜に門下生のレッスン、軽く遊びに行ってから

深夜に仕事! こんなの全然平気だったのが・・・

この頃は音を聞くと良く寝ちゃいます、それがまたイイ気持ち(職業ガラ最低ですよね)
同世代の皆さんはどうですか?何か運動したほうが良いですよね。
昭和の激しくもエキゾチックな時代を生きた方々、今夜も一緒に「あの頃」に帰りましょう。
昭和40年代−僕の青春はギター
「宗右衛門町ブルース」のヒットが昭和47年(1972)です。
僕がバンド活動を始めたのが中3(昭和41)の時、今になって思い起こすとタッタ6年なんですね。
誰もがそうでしょうが、子供から大人になる数年で人生が決まるんですよねぇ。
僕の家は別に音楽一家でもなければ、芸能人の家系でもありません。
音楽家になった理由はひとつ、完全にアノ時代のエレキブームの影響です。
桃山学院の軽音部(当時の部長が堀内孝雄)に入ったのもエレキギターを弾きたいから。
音楽喫茶はもちろん、キャバレー、クラブ、スナック、ビアガーデン、プールサイド、遊園地、
今、僕がラジオで喋っても若い世代に信用してもらえない(まぁ普段エエ加減というのも原因カナ)
映画館の休憩時間の演奏、寺の本堂で「仏教の歌」の演奏。(誓って本当です)
極端に言うと「葬式」以外は演奏しました。(ひょっとしたら演奏したバンドあったかも?)
でもブームが去るのも早かった、当時はワァーと飛びついてサーと終わるパターンの繰り返しでしたね。
音楽だけじゃなく、ボーリング、キックボクシング、女子プロレス、漫才ブーム。
「周りがヤルから俺もやる」パターンが圧倒的に多かった。
現代ならオイルショックだからって品切れするほど、トイレットペーパーを買い漁らないですもんね。
日本中の人が各ジャンル初体験だったんでしょうね、だから「初恋」みたいに熱中時代を過ごした。
そして、もちろん歌謡コーラスもそうでした。
日本全国で数百のグループは有ったでしょうね。
中規模以上のキャバレー、クラブには専属のグループが居ましたからね。
今では、NHK「思い出のメロディ」などで顔を合わせるグループは10組程度でしょうか。
それぞれが代表曲を持ち、今でもカラオケで歌って頂ける「幸せなグループ」。
今はCDが売れない時代、だからといって時代のせいにしていたら駄目、と門下生達には言っています。
そして、「心に残る歌」を歌って皆様から愛される歌手になってくれればと願っております。
冒頭にも書いた通り、数年前からカラオケベストテンに選ばれたり、テレビ出演が入ったりしたんですが、
再燃した?−「宗右衛門町ブルース」
そんなプチブームの要因の一つに純ちゃん人気に沸いた当時「小泉首相は宗右衛門町ブルースファン」
と週刊誌に載った事があったんです。
先日、勝ちゃんに言うと「そうやで、麻生さんも応援してくれてるで」との答えでした。
「麻生さん、宗右衛門町って読めたんや」と失礼なボケをカマシながら、そうやなアノ時代に生きた、
小泉さんも、麻生さんも、歌い継いで頂いている皆さんも、そして僕らも青春やったんやなぁ。
多くの方から若き日の思い出の一曲に入れて頂いている・・・
そう思うと何か、熱くなってウルウルして来ました。
「青春の季節も何時しか去り、時の流れは止めようも無く、生ける誰もが死亡率100%・・・」
先日、学生時代に好きだった女性が亡くなったと聞き、鮮明に蘇る記憶に・・・
脱力感で休業状態です。(合掌)
彼女も僕と同じく離婚を経験して独身だったらしく、そして昔日の歌を愛唱していたそうです。
残念−NHK「紅白歌合戦」
前に「12月のレコード発売」が僕達に影響した、と書きましたよね。
その影響とはNHK「紅白歌合戦」に出演できなかった事です
一発屋(本当は二曲目もソコソコ売れたんですが)と言われた僕達は、選考時期にはヒットチャート
消えていたと言う現実を痛感した12月発売。
でも逆に、クリスマスソングや宴会ソングが売れるのもこの時期だから、会社的には間違ってないです。
それに、誰もこんなに大売れするとは思ってなかったんでしょうね。
まぁ、今では1970年代ランキング曲に選ばれた中で唯一「紅白に出てない」と変な自慢をしてます。
大スターあこがれの先輩
当時のクラウンレコードは、テレビ番組も持っていましたし、全国ツアーも盛んでした。
スターも目白押しで北島三郎さん、西郷輝彦さん、山田太郎さん、水前寺清子さん、
そして、子供のころからの憧れ日活の映画スター「マイトガイ 小林 旭」さん。
このスターを中心にそれぞれ分かれて回ります。
旭さんと一緒の時は、リハから緊張、緊張。
ステージ袖などで、チョッと声を掛けて頂いてもカチカチでしたね。
さて、今年も紅白が終わりましたね、僕としては最近の内容は正解だと思います。
できればモット「歌番組」としての王道を行ってほしい。
バラエティ全盛の今、あえてお遊び色を抑え「本物の歌を聞かせる」番組にするべき。
何と言っても毎週「歌謡コンサート」を制作するNHKの姿勢はスゴイと思うので。
同期に山岡正二?(現在の吉幾三)やキャッシー中島がいました。
豪快に作った借金を、「昔の名前で出ています」で一発完済。
映画制作で作った借金を「熱き心に」でまた完済。
人生がカッコ良い、正真正銘の「映画スター」ですね〜。
(ホステスさんに焼き芋を配って歩いたヒット御礼キャンペーン/有志写真提供)
 
2010年10月30 日の朝日新聞に一部が掲載されました。
番外ーこぼれ話(懺悔〜!)
当然、遊びました。
今だったらワイドショーネタの目玉になるような「売れっ娘」とのデート。
僕らの基本がお笑いだったので、相手も気軽だったんでしょうね。
現代も女優や女性タレントが、芸人を選ぶケースが多いでしょう?
これは、芸人は回りくどい口説き方をしないからでしょうね。
*注→今だに言われるけど、誓ってガセは超人気グループのTさんとは会った事も無し。
普通、美人女優はフランス料理と高級ワインと外車で口説く!と思うでしょう?
それは、水商売の女性になら有効かも知れませんが・・・
さて、この答えは自分で考えるか、店(ダークホース)に来て聞いて下さい。
【何回も仕事で行った、地方キャバレーの可愛いホステスさん】
近くの県まで行った時は、わざわざ連絡を取りデートしてたのですが・・・・
アトで聞いてビックリ!! 彼女は歌謡コーラス○○マニアで「義兄弟」がワンサカ!
偉大な先輩方さようなら
昨年もNHKの楽屋で気軽に声を掛けて頂いた、ロスプリモスの森聖二さんがお亡くなりになりました。
★   ★   ★   ★   ★   ★   ★   ★   ★   ★
レコード会社も同じだったので、デモテープの段階で良くプロデューサーに聞かせて頂きました。
憧れの歌声の先輩でした・・・
ロマンチカの浜名さん、フォーリーブスの青山さん、ジャガーズの岡本さん、G.カップスの平尾さん・・・
早すぎるお別れですね。
吉は面白かったから僕達のグループに入る話もありました。
当時の東京歌謡界と芸能界
今の放送では常識になった大阪弁のMCですが、当時の東京では否定的でした。
ましてや歌手の世界ともなれば、「標準語でないとイメージが悪い」「曲を台無しにする」
とか、散々でした。(それでも僕たちは大阪弁で通しましたけど)
また、台本無しのラジオトークにもダメ出しの嵐でした。
ラジオは聞いている人と自分の一対一の交流・・・ と思っていたので(今もそうです)
僕たちは間違って無かったと言う事でしょうね、今はフリートークですもの。
その会話に台本が有るとシラケてしまいますよね。、
「自分の言葉で自分の思いを話す」事が出来ないでは、伝わる歌は歌えない。