まず、最初に・・・

 これは1974年に日本で"ローリングストーンジャパン株式会社"より発売されたローリングストーン2月号(?)に載っていた記事である。本来なら記事の転載はいけない事であるが、現在において上の雑誌社は存在しないと思うし、記事の内容の重要性や入手困難な現実を考えて、ここに転載する事とした。もし、この記事に関係する方の中でこの転載に問題があるとしたら、ご連絡ください。すぐに削除いたします。(連絡先→mashroom@hyper.cx

 本文は2部構成で、最初の文章は先ほど映画化された「あの頃ペニーレインと」の主人公でもあり、アカデミーの脚本賞を受賞したキャメロン・クロウの手によるものである。文章の最後に(筆者は16才でサンディエゴの大学に通う優等生である。今までにローリングストーンとL.A.タイムズに寄稿したことがある)とあり、もしかすると時期的にも「あの頃ペニーレインと」に出てきたバンドはAllmansか???あのギタリストってディッキーぽかったし。映画と共に楽しんでもらいたいものである。

The Allman Brothers Story
グローブがギターに化けちまった物語が始まった

想いはローズ・ヒル墓地へ・・・

 彼の喋る英語は、ジョージア経由ナッシュビルなまりを主流に、渡り歩いたアメリカ各地のなまりを少しずつ加え、最後に微かだが最近身に付けたカリフォルニアで仕上げてある。声はクリス・クリストファーソンに似ている。そして顔は、なくなった兄、デュアンに気味の悪いほどそっくりだ。

 深夜のホテルの一室で、音を消した白黒テレビが今流しているのは、どうやら恐怖映画らしい。ブラウン管の明かりが照らし出すグレッグ・オールマンの疲れた横顔は、メーコン市ローズ・ヒル墓地の月夜の風景のように青白い。

 ローズ・ヒルは、オールマン・ブラザーズ・バンドが、月50ドルの安アパートの2部屋で、貧しく消耗する日々を送ったところだ。近所のローズ・ヒル墓地は草の生え茂る、静かな、女の子と2人きりになるにはお誂え向きの場所だったが、今はデュアンとベリー・オークリーが埋葬されているところでもあり、彼らにとって宿命的な土地なのである。
並んで眠る、DuaneとBerry

 相変わらずとろんとした顔で、音無テレビを見続けているグレッグには、最近の大成功はどう移っているのだろうか。2週間にわたるウエスト・コースト・ツアーは、どこでも熱狂的な反応を巻き起こし、ニュー・アルバム<ブラザーズ&シスターズ>はチャートを上昇中だった6枚のアルバムの売り上げは、合計すると100万ドルを越え、そのほとんどはミリオン・セラーになっている。この半年間、ステージでは1晩で平均5万から10万ドルは利益をあげている。ワトキンズ・グレンに60万人を魅きつけたのも、オールマン・ブラザーズ・バンドの力に負うところが大だと言われている。このフェスティバルのプロモーターは、はっきりした数字を挙げたがらなかったが、カプリコーン・レコードの話では、オールマン達の稼ぎは天文学的な額だったらしい。とにかく、今や彼らの出演するところはどこでも、全席売り切れが常識なのだ。


Brothers & Sisters
 しかし、サンフランシスコ、ウインターランドでのマラソン的熱演を終えたグレッグの心は、もっぱらローズ・ヒルの方へと沈んでいるらしい。---「肝心な事は、今僕らに人気があるのはどうしてか、なんて事じゃないんだ。人気の事なんてあんまり考えないようにしてるんだ。重要なのは、何がオールマン・ブラザーズを今だに頑張らせているかだよ。いろんな奴が聞くよ、2人もベスト・メンバーを失っているのに、君たちにはちっともこたえていないみたいだね、なんてさ。何故なのかなぁ。ぼくがまだ正気でいるからかい?まだプレイしてるからなのかなぁ、そんなこと言われるのは。事実、そこに成功の原因を探る鍵があるんだけどね。つまりさ、ぼくたちが演奏をやめたら、2人の死から立ち直れずに、気の抜けた植物人間になっちまうのが分かっているからなんだ。それが成功だったってわけさ。成功っていうヤツは、テメエの脳味噌はテメエの頭の中にちゃんと収めておけるってことだよ」

ギターと言う美人に惚れちゃって
 デュアン、グレッグの兄弟は、1946年そして47年に、テネシー州ナッシュビルに生まれた。この地方にスタジオ・ブームが起こりかけていた頃だった。陸軍少尉だった父親は、1949年朝鮮戦争から休暇で帰国し、クリスマスの翌日にヒッチハイカーを載せ・・・その男に殺された。
 グレッグは言う。「人が何故ミュージシャンになろうとするのか、考えてみる必要があるよ。僕の場合はね心を鎮めるためなんだ」
 兄弟の母親、ジェラルディン・”ママ”・オールマンは、学校に通って公認会計士になる。「誰かが子供達を孤児院に入れたらと薦めたけど、オフクロは丁重にそれを断って、僕らをキャッスル・ハイツ・ミリタリー・アカデミーに入れてくれたんだ。でも2人とも学校は大嫌いだったけど」
 1958年、一家はフロリダ州デイトナ・ビーチに移る。1960年、13歳のグレッグは、夏休みに新聞配達をして稼いだ21ドルを手に、夏の終わりの「朝はもうひんやりする頃、グローブを買おうとシアーズ百貨店に行き」、ギター売場を通りかかり、「ギターという美人に惚れちゃった」のである。「21ドル95セントっていうのがあったんだけど、カウンターの向こう側にいた、イヤったらしい男の店員は触らせてもくれないんだ。次の日また行って、ついに手に入れたよ。その店員がヘトヘトになるまでねばってやった。眠る事も食べる事も何もかも忘れて、ギターを弾き続けたよ」
 この同じ夏、デュアン・オールマンは最初のバイク(小型のハーレー)を買った。グレッグは優しい苦笑いを浮かべ、頭をふりながら、このバイクの事を思い出す。「デュアンってまったくガキだったんだから、あの頃はね」そして、いかにも誇らし気に「デュアンが学校をやめたり、追い出されたりしたのは、何回だかわかんないくらいなんだ。バイクばかり凝ってね、ポンコツになるまで乗りまくるんだよ」
 デュアンは、グレッグのいない時には、彼のギターに手を出すようになる。やがてそれは兄弟喧嘩のタネになり、それぞれ誕生日にひとつづつ買ってもらうことになった。かくして、グレッグが最初にエレクトリック・ギターを手にしたのは、「1960年11月10日、土曜の午後3時」なのだった。
 兄弟はエレクトリック・ギターのレッスンを、テッド・コーナーズという「教えかたの滅法うまい切れ物」から受けることになった。「まだあそこに住んでいるかも知れないよ。彼はね、アホらしい教則本なんか使わなかったよ。ぼくらが、チャック・ベリー教えてくれ!って言ったらさ・・・ほんとに教えてくれたんだぜ」
 グレッグがイヤイヤながら高校に通っている間、デュアンは家に居て、薪小屋の中で練習し、めきめき腕を上げていた。地元のR&B局がケニー・バレル、ロバート・ジョンソン、チャック・ベリー等を流していて、デュアンは耳から覚えてしまった。楽譜の読めないギタリストとして、デュアンは世界最高だった、とグレッグは言う。
 1年間の練習期間ののち、デュアンとグレッグはデイトナ・ビーチの黒人バンドの幾つかと一緒にプレイするようになった。デイトナ・ビーチと言うところは、白人はサーフィン、黒人は音楽と相場は決まっていて、極めて「単純」な土地だったそうだ。1963年に兄弟一緒にホット・ロッカーズというバンドに入る。これが家族で問題になった。「また、ニグロと音楽をやるのか」というわけだ。「ぼくはオフクロを説得したよ。ニグロを差別するなってね。今じゃオフクロも、すっかりリベラルになってるよ」
 デュアンはついに高校を卒業できなかったが、グレッグは1965年シー・ブリーズ高校を卒業した。この年の夏、2人は「オールマン・ジョイ」というバンドを結成し、巡業に出た。「アンプからなにからすっかり揃えて、ステーション・ワゴンに積んで動き回ったのさ。立派なもんだよ。最初のステージはモービルのストーク・クラブってとこで、かなり怪し気なところだったな。ぼくはホームシックになるし、このクラブに着くまでに14回もゴタゴタがあったよ」
 それでも、クラブのショーをこなせるよになると、ホームシックもトラブルも消えてしまった。「この辺じゃ、一番ホットなバンド」としての自覚と決意が生まれたかのようだった。1週間ぶっ通し、しかも1晩6回ものステージというすさまじい巡業スケジュールだった。南部のティーンエイジャー用クラブで、ジョー・テックスのマネージャーが彼らに目を付け、アルバム2枚分の録音をしたこともある。この中から<スプーンフル>のサイケデリック版ともいうべきものが、シングルでリリースされたが、幸いなことにこれは世間の耳目を集めるまでには至らなかった。

 

NEXT ->>

<<- back

 

close