「音楽とともに」


なんかね、ミトミアイがいままで聴く立場、演奏する立場でたくさん音楽に関わってきたこと、
書いておきたくなったのでこんなページを作ってみましたよ。
お時間あったら読んでみてください。


1985(3歳)
歌うことが好きだったみたい。
おばあちゃんに買ってもらったおもちゃのマイクで、熱唱している証拠写真あり。
当時の十八番はチェッカーズの『ギザギザハートの子守歌』

1989(6歳)
近所の人から安く譲り受けたピアノが家にやってきた。
だからピアノ教室に。保育園の卒園アルバムに「ピアノの先生になりたい」とか
書いてあるけど、小学校に入学して間もなくピアノ熱は冷め、練習嫌いで上達しない子に。

1993(10歳)
10歳、7歳離れた兄の聴いてるものを一緒に聴いて一緒に歌ってた。
そのなかの曲をカセットにダビングしてオリジナルテープを編集しはじめた。
この頃好きだったのは「渡辺美里」「観月ありさ」など女性ボーカルもの。

1994(12歳)
テレビの音楽番組やCMで気に入ったCDを買うようになる。
Mr.Children『イノセントワールド』は、たっくさん聴いた。JUDYANDMARY『OrangeSunshine』にもこの頃であう。
小学校で流行っていたビジュアル系も詳しかった。

1995(13歳)
中学校入学と同時に吹奏楽部に入部。打楽器パートになる。
選んだ理由は、先輩の演奏をみて「あ、わたしのほうが出来る」って思ったから。やなやつ。
「PATI-PATI」「B-PASS」など音楽雑誌を買うようになり、ミュージシャンの音楽に加え言葉にも刺激を受けるようになる。
放送委員になったのをいいことに、自分の好きな音楽を「お昼の時間」にかけまくる。
ライブもこのころから行き始める。初めて行ったのは「観月ありさ」で母が誕生日プレゼントにチケットをくれた。
兄のやってるバンドを観るためライブハウスにも行き始める(そのため公共交通機関に強くなる)。
JUDYANDMARYは武道館ライブに行って、完璧にハマった。
川本真琴も兄と一緒になってハマってた。

1996(14歳)
同級生とバンドやろうと盛り上がり、結成。ドラム担当のはずが気付けばギター担当に。
しかし活動は2、3回スタジオに入っただけ。でもオリジナル曲のあるバンドだった。わたしも1曲作った。
神奈川に隣接してる町なので、音楽PVを多く放映する「TV神奈川」がバッチリ見られたので、見まくる。
TVKは新人アーティスト、ビジュアル系の宝庫だった。ミッシェルをはじめ、たくさん出会いをくれた。
ラルク大好きな友達とライブによく行ってた。アマチュアでもお気に入りのバンドがあってよく行ってた。
それが原因か知らないが成績下がり気味。三者面談で「ライブとかによく行ってるようですが」と先生に言われた時、
「ええ、兄がバンドやってて。私もこないだ一緒に行ったら楽しかったですよ〜」と返した母。この親にしてこの子あり。

1997(15歳)
志望高校に受かるため、内申点アップにいそしむ。
吹奏楽部部長、放送委員長、を兼ねていたため同級生に「音楽に詳しい人」と思われていた。
放送で流すCDを用意するため、同級生の音楽の趣味もかなり把握していた。
内申アップにいそしんだのが効果ありで、はやばやと推薦入学で合格。それから卒業までヒマだったのでTVKをずっと観る。
「The Turtles」のPV観て電気ショック。
公立高校一般入試の日に、同じく推薦で受かっていた友達とこっそりライブに行き、大好きになる。
同じ頃出たTAKUYAのソロプロジェクト「ROBOTS」のアルバムに感銘を受け、「尊敬する人=TAKUYA」になる。

1998(16歳)
高校入学と同時にまたもや吹奏楽部入学。
「CASCADE好き」の子と「TMGE好き」の子と「チャゲアス好き」の子と一緒に打楽器パートになり地道な練習をがんばる。
クラスの女子に「いかにタートルズが良いバンドか」を説いてまわり、頼まれてもないのにCDを貸しまくる。
おかげで、みんなファンになった。
「JUDYANDMARY好き」の子がちらほら居り、コピーバンド結成。ドラム担当。もっとも、一年の時は数回練習しただけ。
打楽器パートの先輩から「人を楽しませる演奏」ということを教わり、一年みんなで試行錯誤。
その結果、振り付けを考える力やアイデアを出す力が芽生えはじめる。
またまたTVKを観ていて電気ショック。「esrevnoc」というガールズポップバンド。ライブに行ってさらにハマる。

1999(17歳)
文化祭でバンドライブ@体育館。
ドラムでやってたJAMコピバンとは別に、Vo.&G.のでもうひとつコピバン結成。
「ROBOTS」「esrevnoc」「TheTurtles」「L'Arc〜en〜Ciel」の曲をやるというマニアックなバンド。
JAMバンドの方は自分達で自分達に感動するほど一体感がありよいライブだった。
マニアバンドの方も予想以上にうけた。
年度末の吹奏楽部演奏会にて総合監督的な立場に。演出や照明を考え、衣装とも協力していい仕事しました。
やりきった感がありすぎて、吹奏楽部はもう引退。

2000(18歳)
esrevnocのライブによく行った。最前で観てることも多々ありメンバーも顔を覚えてくれてた!?
合唱祭で指揮者に。かなりがんばった。ピアノやっててよかった〜。
文化祭のクラスの劇で音楽担当に。ピアノやっててよかった〜。
このときクラスのみんなでつくった曲(曲は元々あるやつで、歌詞のみオリジナル)がすばらしく舞台ともうまくあってた。
この年もバンド。
マニアックな方ね。またまたマニアックな選曲ながら大盛況。
夏休みをもって受験勉強のためライブ断ちをするも、勉強は手につかず。(それから世の音楽に疎くなる。)
センター入試の直前にJUDYANDMARYが解散を発表。さらに勉強は手につかず。
センターの結果、受かる大学を捜し求めて、今の大学が浮上。そこを志望校に勉強。一番勉強した時期。
よってその頃発売されたJAMのラストアルバムはあまり聴けず。
合格した大学もないままJAMの解散ライブ@ドーム。いいライブだったが、自分的にのりきれずじまい。
(でも、後でライブビデオみたら最強のライブだった。それを堪能しなかった自分に後悔。)
JAMのライブから帰ってドアをあけると、今の大学から「合格通知」が。
翌日、卒業式で「今後の抱負」を言う時間が与えられ
「JAMのように、いくつになっても10代から『かっこいい〜』と言われる大人になりたい」と宣言。
春休みのころBSでの特集がきっかけで、「松本隆(はっぴぃえんど)」が好きになる。

2001(19歳)
大学進学のため、名古屋へ。親戚0、友達0からのスタート。
音楽仲間をもとめ軽音サークルに入部、強引に「esrevnoc」のコピーバンドに。
地元のライブハウスはどこに行っていいかわからないこともあり、映画熱のほうが高い時期。
「中村一義」をようやくこのころ聴き始める。
秋に、ふらっと行ったTAKUYAのトークイベントに向かう途中に、TAKUYA本人に遭遇。
ツーショットで写真を撮るも、コピバンをやってたほどのファンだということはほとんど伝えられず。
その悔しさを糧に「なんでも見聞きしよう」と経験に対し貪欲になる。

2002(20歳)
サークルの後輩を集めてバンドを組む。ドラム。渋い選曲。
御贔屓のお店の新春パーティで名古屋の「MorningSet」に出会い、朝まで飲んで語り、次回ライブに行く約束をする。
約束どおり行ったMSのライブ会場が部屋から徒歩10分のBL。こんな身近に音楽スポットが。
その日のライブで「gook the best race」をみて衝撃。
esrevnocのVO.のソロ「Quinka,with a yawn」が活動していることを知り、ライブに行く。
ライブでやっていた高田渡のカバー曲がずっとひっかかってて、「高田渡」のアルバムを後日購入。

2003(21歳)
21歳の誕生日に行った「TRASHPARTY」がきっかけで一気に名古屋のバンドシーンに足を踏み入れる。
週の半分以上は何かしらのライブに行く生活のはじまり。
大学の先輩が企画したイベントに出るために軽い気持ちで後輩のまいちゃんと「あいまいなあたしのあい」結成。
そのイベント前日に遊びに行っただけのBLでいきなり「ライブやってみれば」と言われ、はからずも初ライブ。
それがきっかけで「あいまい」が動き出す。

2004(22歳)
「あいまい」が思いもよらない展開を続け、昨年ライブで観ていたバンドと次々に共演。
観る側と演る側になり、精神的にちょっと忙しくなる・・・

さてこれからどうなるんでしょ。

あいまいHPに戻る