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++ 俺的人生の歩み ++ | ||
86年9月27日 | 午後6時45分、おかんにとっては2人目、親父にとっては5人目の子として生まれる。 厳しかったが、じーや・ばーやには甘やかされて育つ。 |
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90年 | よく俺のことをかわいがってくれたじーやが、胃ガンで逝った。 この出来事は、俺にとって相当なショックであった。 「じーちゃ〜〜〜ん!!」と、泣き叫んでいたのを、 わずか3歳の時のことであるにもかかわらず、ハッキリと覚えている。 厨房になったころ、十三回忌で「あんたのあれで、皆もらい泣きしたんよ」と、 言われた時はさすがに恐縮した。 |
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91年4月 | 地元の町立幼稚園に入園。 集団生活に入ったことで、協調性が欠如していることが露呈。ワラ。 結局、未だに欠如している。 |
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92年 | “適当に英単語を発音していたから”などという理由で、 姉の後を追うように英会話のジオスに入れさせられる。 結局、消防5年の時まで通い続け、それまでに3級を取得。 |
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93年3月 | 幼稚園卒園を間近に控えたある晩、猛烈な腹痛に襲われ病院へ。 盲腸炎と診断され、人生初の手術を経験する。 鼻にチューブを突っ込まれ、チ○ポにもチューブを取り付けられ、 飯はお粥しか食えず、まさに地獄だった。 この入院生活中、人生初のゲームとなるゲーム・ボーイソフト、 「スーパー・マリオ・ランド」をプレイし、これを初めとする様々なゲームをし始める。 |
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4月 | 地元の町立小学校に入学。 |
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95年 | 姉のピアノの発表会「家族合奏」の部に、カスタネット役として出る。 あまりの緊張に、終始ニヤニヤしながら赤面していた。 “大衆の面前で楽器を演奏する”という体験は、これが人生初であった。 |
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9月 | ダチの練習を見に行ったのがキッカケで、一緒に空手を習い始めるが、 正直、おかんに行かされてる感が強かったので、あまり楽しくなかった。 |
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96年3月 | おかんの友人からグローブをもらったのをキッカケに地元の少年野球チームに入団&空手をやめる。 近所に住んでた先輩や、姉の同級生がかわいがってくれたこともあり、大いにハマる。 |
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6月 | 姉の影響で「ストリートファイターZERO2」にハマリ、 これ以降様々なCAPCOMの格闘ゲームをプレイしていく。 |
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7月 | ある日の放課後、近所の爺さんから「田んぼ仕事で見つけたから」と、 一匹の亀をもらう。以降、俺一人で育てることに。 |
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10月 | 代打として少年野球公式戦に初出場。結果はサードゴロ。 | |
98年3月 | 遂に正捕手としてレギュラーの座を掴む。打順は、5,6番。 | |
99年3月 | 小学校を卒業。 | |
25日 | 少年野球チームを無事、卒部。 同じ日に、今まで可愛がってきた亀があの世に逝ってしまった。泣・・・。 |
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4月 | 地元の町立中学校に入学&野球部に入部。 この中学時代にかなりの友人を持つことになる。 また、この頃から地元でも修羅場的なゲーセンに通い始め、 様々なゲーマーと対戦を繰り返すようになる。 |
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00年3月 | 当時の副担任と海外バンド(ジョジョの影響で名前だけは知っていた)の話をしていた折、 彼がCHEAP TRICKのベスト版「STAR BOX」を貸してくれた。 これを発端に、今まで興味もなかった音楽にどっぷりとはまることになる。 彼がいなければ、俺がジョジョを読んでいなければ、ドラマーとしての俺は確実にいなかったであろう。 |
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4月〜 | 友人のこーた君や、学校での授業、隣町のPC教室の影響でPCを始める。 と、同時に心霊スポットや心霊写真にかなりの興味を持ち始める。 で、実際に心霊スポット探索や心霊写真の撮影・収集・投稿などを始める。 あと、様々なコミックの収集に没頭する。 |
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10月 | 上に同じく友人のこーた君の影響で自身初のHP(心霊系)を作り始めるが、挫折。 | |
01年 | 高校受験に向けて本格的に勉強を始めなければならないというのに、バカな俺は一切そんなことには手を付けず、 相変わらず音楽とマンガ、ゲームに狂っていた。 |
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7月 | 無事、野球部を卒部。最後の夏の大会は三回戦まで勝ち進むという、満足のいく成績を残す。 また、この中学生活を最後に、野球を本格的することはもうやめようと決める。 必死に勉強する姉の姿を見、高校に行けば勉強との両立ができなくなる、と考えたからであった。 |
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9月 | またも友人こーた君がキッカケを与えてくれた。 ある日、俺の机の横にどかっと座ると「ドッタ、ドドタ、ドッドタ、ドドタ」という8ビートをやった後、こう言った。 「従兄弟に少し習った。これが1週間以内にできんかったら、おまえにドラムの才能は無いばい」と。 他の友人はほとんどできるまでやろうとしなかったが、ムキになって練習した俺は3日でこれができるようになった。 「今まではただ聴くだけやったけど、今度はそれを演奏する番なんちゃ!!」、と奮い立ち、 数日後、親父にこのことを話してみたら、「俺が高校のころはみんなビートルズとかベンチャーズに狂うとったが、 エレキなんぞは医者の息子しか買えんかったから、みんなスティックだけ買って、いっつも懐に忍ばせちょった。 昼休みとかになるとな、誰かが曲を口ずさむのに合わせて、振り回しよったんよ」という話を聞くことができた。 で、俺はすぐさまワンペア\500のスティックと教則本を買ってきたのであった。 ここから全ては始まったのである。 この日以降、親父にドラムを買ってもらうまで、スティックは空振り、足はパタパタ踏んでの練習に没頭する。 また、同じく親父の影響で、50〜70年代のロックも聴き始める。 |
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02年1月 | 同級生らとアルティメッツというバンドを結成しようとするも、俺とヴォーカルのTOSHI以外初心者だったため。 一切の活動はなかった。 |
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AEROSMITHの“just push play tour 2002”福岡ドーム公演を観に行く。 これが人生初の“人のライブを観る”という経験で、相当なショックを受ける。 スティーブンの「チョットスイマセーン!!」に禿ワラ。 |
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2月 | フクトの「全国一斉模試」の成績で数学と理科があまりにも悪かったため、 入試1ヶ月前という時期から勉強を始める。自分なりによくやったつもりだ。 |
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3月 | 偏差値53ほどの県立KH高校を受験後、中学を卒業。 たった1ヶ月間の勉強のおかげか、合格する。 母も祖母も「あんたが受かるとは思わんかった」と号泣する。 失礼にも程があるぞ!! |
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4月 | 先述の高校に入学する。 当初は吹奏楽部に仮入部していたが、理想とはかけ離れていたためと、 ロックバンドへの夢が捨てきれなかったことを理由に入部せず、軽音楽愛好会を設立しようとする。 しかし、そう簡単に行くはずもなかった。 |
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6月 | 親父が、入学祝にとTAMAのスイングスターをプレゼントしてくれた。 人生初のドラムセットに感謝感謝。 当初、生ドラムでガンガンブッ叩いてたら、隣の家(某893の組長の妹が暮らしている)から苦情をもらう。 「殺られるかもしれん」と、試行錯誤を繰り返した結果、Pearlのメッシュヘッドの存在を知り、即購入。 安定した練習環境を手に入れる。 ある日、俺の机の上に1枚のアンケート用紙が置かれていた。 内容は、「どんなリズムを刻めるか?」とか「どんな機材を持ってるか?」と、いうものだった。 要は、バンドを組もうとしている人がドラマーを探していて俺の噂を聞きつけた、ということであった。 俺は喜んでその紙の差出人であったKEITA、AYUMU、ARIのバンド・STASHに加わった。 後日より、Hi-STANDARD、THE OFFSPRING、SUM 41、175Rなどのコピーを始める。 このテの音楽にはじめて触れ、新たな感動を覚える。 |
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03年3月 | 人生初となるライブを決行する。 むちゃくちゃ緊張したが、最初のスネア一発叩いた瞬間、緊張は吹っ飛び、ノリノリだった。 しかし、STASHはこのライブ以降、崩壊への道を突き進んでいく…。 |
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4月 | STASHとして、二度目のライブを決行。 ヴォーカルのKEITAは、既にやる気を失くしており、不参加。代役を立てる。 |
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5月 | 今後、バンドをどうして行くかを話し合った結果、KEITAとARIの意見が合わず、解散した方がいい、ということになる。 そして、6月のガッコの文化祭・有志onステージで、解散ライブをすることを決める |
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6月 | で、解散ライブを決行する。 学校側、毎年恒例のダイブ&モッシュを危険行為とみなし、「客が一人でも暴れたら、即ライブ中止」という、 クソッタレもいいとこな決まりを作りやがった。 おかげさんで、いくら激しい曲をやってもむちゃんこ静かだった。今までのライブで一番最悪。 |
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7月 | STASHで一緒だったKEITAに誘われ、その友人のSATOSHI、YUKIらとHigh Qualityというバンドを結成する。 このバンド、TEEN'S MUSIC FESTIVALに出場するためだけのバンドであったが、 はじめてオリジナル曲というものをやったバンドでもある。ドラムを四苦八苦考えたことは、今でもよく覚えている。 で、TEEN'S当日、福岡は大水害に見舞われ、交通渋滞が発生。俺は4時間遅刻し、危うく棄権するとこだった。 しかし、骨を折った割には、何も受賞できず、全員がへこむ。 夏休みに入った直後、腹痛・頭痛・高熱に襲われ、4日間入院する。 診察の結果、腸管が炎症を起こしていると告げられる。 で、血液中からはネズミから検出される菌が出てくる。 俺って、そんなにひどいもん食ってたのか? |
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8月 | 近所のT公園にスネアの練習(&パフォーマンス)に行くようになる。 これが、多くの人と知り合うきっかけとなることに…。 |
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10月 | 同じ中学出の1年後輩に頼まれ、GaChaAキューピー(がちゃがちゃきゅーぴー)というバンドに加入する。 ヴォーカルのおにゃのこはえらく歌がうまかったが、付き合ってたベーシストと別れたため、すぐに解散する。 あっという間の出来事。なんだったんだ。 |
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04年1月 | 先輩から、「オレら、卒業ライブに出るんやけど、入らん?」と誘われ、 MINI☆SKA☆PARADISEというバンドに加入。メンバーは基本の4人+ブラスが3人入って7人。 |
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3月 | で、卒業ライブ「sudannna & koz fest 〜ちょっと待ってよ!まだ帰らんめーや!〜」に参加する。 久々のライブだったこともあって、かなり楽しかったが、 スティック落とすわ、ハシりまくるわで、自分のプレイは最悪だった。 |
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5月 | MINI☆SKA☆PARADISEで仲良くなった先輩のバンド・DUCK BORNSにサポートとして参加。 | |
7月 | ダチのバンド・K-V(後、AIR K゙ERに改名)に後釜として加入する。 ミクスチャー系音楽を初体験。 |
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10月 | 志望していた音楽系専門学校への合格を決める。 将来への足がかり第一歩。 |
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12月 | 自分のバンドが主催となり、クリスマスライブを敢行。自分のバンドが主催というのは、初めてのこと。 結果は大盛況で、結構な黒字が入った。初の物販物であるステッカーも売り上げ好調。 |
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05年2月 | 隣街の自動車学校に入学。 | |
3月 | 無事高校を卒業。 高校時代にできた親友U(彼はベーシストであった)が東京の某音専に入学とのことで、ともに奮起を誓う。 |
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4月 | 昨年の10月に合格をきめた音専へ入学。入学式で生まれて初めてスーツを着る。 これ以降、テクニックがどんどん成長する。 |
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自動車学校を卒業し、数日後に一発で免許取得。 | ||
9月 | AiR K゙EAが解散ライブを行う。皆高校を卒業し、バンドに情熱を持てなくなっていたことが解散の原因。 最後だけに盛り上がりもすごく、終演後に俺のスティックをくださいという人まで出現。俺、うかれる。 |
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06年 1月20〜27日 |
学校の研修旅行で米国・LAに行く。現地の学校で授業を受けたり、NAMM SHOW2006に参加させていただいたり、 最終日にはある理由でヴァージル・ドナティ氏から直接、直筆サイン入りのシンバルを頂いたりと、 様々な貴重な体験を得、何かが見えた。色々な意味でターニングポイントとなる。 |